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2015年4 月13日 (月)

村上春樹小説における「モヒート」「レクサス」から考える最新型高度資本主義社会 このエントリーをはてなブックマークに追加

 

■春樹と固有名詞

村上春樹の小説には多くの固有名詞が登場する。例えば「ヤナーチェク」。『1Q84』で取り上げられたヤナーチェクのCDがショップの店頭から消失し、急遽再発されるというようなことも起こっている。春樹経由でビーチボーイズを知った人も少なくないだろう。村上春樹の小説を読み解く上で、こうした具体的な固有名詞、文化記号に迫るというアプローチも可能だろう。ビーチボーイズ、ブルックスブラザーズ、マールボロ、トーキング・ヘッズ、ピナコラーダ、ソニー&シェール、シェーキーズ……。

さて『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んでみて、漠然と気になった固有名詞は「モヒート」と「レクサス」の2つである。

『色彩を〜』で主人公の多崎つくると、そのガールフレンド木元沙羅が東京・恵比寿のバーでデートをするときに飲んでいたのが「薄いハイボール」と「モヒート」だった。モヒート。このカクテルが日本でブームになったのは2011年のことだ。この年サッポロビールと業務提携したラム酒メーカーのバカルディ・ジャパンは、ラムの消費量を増やすための目論見として、ラムを使ったモヒートを流行させるプロモーションに乗り出す。彼らは、サッポロの持つ販売ルートを用いて、バーやレストランなどでモヒートをメニューに加える提案、レシピの提供などを行うPR戦略を展開したのだ。

これと似た形でブームを生み出した酒類の前例として、「ハイボール」があった。2008年にサントリーが自社製品であるウィスキーの「サントリー角瓶」の販売量拡大のために、ハイボールの流行を生み出したのだ。サントリーは、缶入りのハイボール製品を開発し、ソーシャルメディアを使った販促を行った。さらには自社経営のバーや契約店のメニューにハイボールを展開。さらには、テレビCMも投入し、一旦は現代の酒場から消えたハイボールを復活させたのだ。

このサントリーのハイボール戦略の成功を手本にしたであろうバカルディは、同じようにモヒートのPRキャンペーンを成功させ、2011年、ついに夏に飲む酒の定番の地位をハイボールから見事に奪い取ったのである。

■カクテルと「高度資本主義社会」のルール
私たちが生きる世界とは「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」というルールの上に築かれた「高度資本主義社会」であるという啓示を識したのは村上春樹である。彼が30年前の日本を舞台にして書いた小説『ダンス・ダンス・ダンス』でのことだ。ハイボールからモヒートへ。これは、まさに巨額の資本投資によってもたらされた「有効な利益」の結果である。

この『ダンス・ダンス・ダンス』という小説の主人公「僕」の職業は、フリーランスのコピーライターだ。広告業界の片隅で生きているが、この「高度資本主義社会」のシステムにはまだまだうまく適応できずにいる。誰もがそれに適応する中、彼だけはそれにとまどっており、それゆえに変人扱いされることも少なくない。「高度資本主義社会」。資本投下と回収によるシステム。それは、ゴージャスなホテルや国際的な高級コールガール組織からデュラン・デュランまでが同じシステムが運営され、なんでも経費で落ちる社会のことでもある。

この作品の中で「僕」は、ある有名作家の娘である13歳の少女「ユキ」の面倒を見るよう依頼される。とはいえ、彼がこの依頼仕事に応じて為すことと言えば札幌で「ウォッカソーダ」や「ブラディー・マリー」を、ハワイで「マティーニ」や「ピナコラーダ」や「ジン・トニック」を飲むことくらいだ。13歳の少女を連れ回し酒を飲むことで対価を得るのも、立派な「高度資本主義社会」の労働に他ならない。「僕」にとっての「高度資本主義社会」の実践の課程が13歳の少女と酒を飲むことだった。

ジンやウォッカといったベースとなる酒にフルーツジュースや別の酒を掛け合わせて作られるカクテルは、まさに「アルコール」という商品価値に別の付加価値を加えるまさに「高度資本主義」的な商品である。実際、村上春樹の小説には、多くのお酒、とりわけカクテルが登場する。冒頭に戻るが『色彩を〜』の主人公「つくる」と「沙羅」は「薄いハイボール」と「モヒート」を作中で飲んでいる。彼らも意識しないうちに、2010年代型の「高度資本主義社会」に生きているのだ。

■バブル、デフレを経て変化した消費社会

「世の中が少しずつ複雑になっていくだけだ。そして物事の進むスピードもだんだん速くなっている。でもあとはだいたい同じだよ。特に変わったことはない」(『ダンス・ダンス・ダンス』(上)より)というのは、この小説のファンタジーの部分である「羊男」の台詞である。これもまた「高度資本主義社会」とは何かを定義するフレーズのひとつだろう。

「だいたい同じだよ。特に変わったことはない」というのは本当だろうか。例えば、現代から『ダンス・ダンス・ダンス』が発表された1988年に示された「高度資本主義社会」の中身を眺めてみると、当時とは随分様相が変わっていることに気がつく。まず「この巨大な蟻塚のような高度資本主義社会にあっては仕事をみつけるのはさほど困難な作業ではない」(『ダンス〜』)というテーゼ、これはダウト! である。昨今の若年雇用問題に関心を寄せる赤木智弘辺りに聞かせたら激怒するだろう。バブル経済が崩壊しデフレが続く中で「巨大な蟻塚」はそれなりに制度疲弊が起こり、新しい蟻に密が行き渡らなくなった。若い世代の就職はわりと「困難な作業」になってしまった。また、主人公は「文化的雪かき」と自虐的に呼ぶライター仕事の数ヶ月分のギャラで、まるひと月遊んで暮らす資金としていたが、現代においては売れてもいないコピーライター、フリーライターのギャラはそんなに高くないとも僕の方から補足しておこう。

また、「ゴージャスなホテルや国際的な高級コールガール組織からデュラン・デュランまでが同じシステムが運営され、なんでも経費で落ちる社会」も、同様にダウトだ。「何でも経費で落ちたのは、単にバブル景気だったからだ」と指摘しているのは批評家の栗原裕一郎(「村上春樹『1Q84』をどう読むか」河出書房新社)である。みもふたもないが真実だ。どうだろう、マセラティ全額は経費では落ちないんじゃないだろうか。もちろん、1988年に刊行された小説が、バブル崩壊後の世界を予測できるわけではないので、春樹に落ち度があるわけではない。

■マセラティとスバルとレクサス

まあ大同小異は別として、消費社会の在り方については、複雑化し物事の進むスピードもだんだん速くなっているという見立ては、外れてはいないだろう。消費社会化の段階変化をシニカルに書くことについて、村上春樹よりもうまい作家はそうはいないように思う(双璧は、ある時期までの村上龍だった)。本作においては、「レクサス」という固有名詞を登場させることで、その役割を果たしているように思う。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の登場人物「アオ」は、名古屋でレクサスの販売主任の仕事をしている。レクサスは、元々トヨタが1988年(まさに『ダンス〜』が書かれた年)に海外向けラグジュアリークラスカーであるセルシオを輸出する際に用いたブランド名である。BMWやメルセデスに比べると値頃で高性能という評判がレクサスに定着すると、今度は逆輸入という形で日本市場に投入される。日本で逆上陸という形でレクサスの販売が始まったのは、2005年のこと。つくっているのはトヨタだが「トヨタ」のブランドは前面に出していない。とても「高度資本主義社会」的である。

アオの勤めるショールームを訪ねたつくるが、最後に尋ねたのは「レクサス」の言葉の意味である。「よく人にきかれるんだが、意味はまったくない。ただの造語だよ。ニューヨークの広告代理店がトヨタの依頼を受けてこしらえたんだ。いかにも高級そうで、意味ありげで、響きの良い言葉ということで」

経済コラムニストのトーマス・フリードマンは『レクサスとオリーブの木』という本の中で「レクサス」を「冷戦システムに取って代わる国際システム」=グローバル化の象徴と見なしている。フリードマンが見たのは、300台を超えるロボットが1日300台のレクサスを製造する工場だ。「材料を運んでフロアを走り回るトラックさせもロボット化されていて、進路に人間の存在を感知すると『ビー、ビー、ビー』と警告音を発する」という光景が描写される。最先端の技術が集結した工場では、まさに人間が「阻害」される。そんなシステムの象徴としての「レクサス」。フリードマンは、レクサスは「わたしたちがより高い生活水準を追求するのに不可欠な、急速に成長を遂げる世界市場、金融機関、コンピュータ技術のすべてを象徴している」と言い切っている。

『ダンス・ダンス・ダンス』は村上春樹の小説の中でももっとも多く自動車が登場する作品かもしれない。主人公の高校時代の友人であり、売れっ子の俳優でもある「五反田君」は、マセラティに乗っている。彼が所属する事務所が経費として購入したこのマセラティは、海に沈めたとしても保険が下りるんだと五反田君も自虐気味に語る「高度資本主義社会」を象徴する自動車である。そして、このクルマは呪われたクルマでもある。最後に五反田君はこのマセラティとともに自ら海に飛び込んでしまう。
 そんなマセラティの対極に置かれるのは、登場人物の「ユキ」流に言えば「親密な感じがする」という目立たず実用的なスバルである。1980年代までの、つまりレクサス以前の時代の日本車の特徴と言えば、つまらないが堅実。つまり故障知らずで低燃費で低価格が売りだった。日本車が世界のクルマ市場で支持されたのは、まさに安さと堅実さ故だった。

だがレクサスはそういうタイプのクルマではない。値頃なラグジュアリーカー。それが、北米市場におけるレクサスの評価だろう。現代の日本のクルマメーカーは、安くて丈夫なクルマという分野ではもう世界では勝てなくなっている。日本がすでに人件費が安い国ではなくなった以上、新興国と価格で真正面から闘うことはできない。そんな中、トヨタが新にラグジュアリーカーの市場で勝負をするために生み出したのがレクサスだった。ちなみにスバルも30年経って、随分とポジションが変わった。現在は北米市場におけるスバルの需要というのは、堅実でつまらないクルマの逆。4技術志向かつ高品質のプレミアムカーとして高い人気を誇っている。

■モヒート測定法、団塊ジュニア、震災

もう一度モヒートの話に戻る。この作品におけるモヒートが持つ意味は、さして大きくはないが、少なくともモヒートはこの物語の年代特定を教えてくれる。

しれっと主人公がモヒートを頼んでいる。この物語の舞台となる年代は、モヒートブームの2011年、またはそれが定着した翌2012年の可能性が高い。そのどちらかだ。いい加減だが、モヒート年代測定法である。これに従うと、多崎つくるの生年は1974年、または1975年だろう。彼が仲間からひどい仕打ちを受け人生に変化が生じた16年前の大学2年の夏休みというのが「巡礼」の先だが、それが1995年か1996年ということになる。仮に、1974年生まれで、1995年が大学2年生、そして「今」が2011年とすると、これが阪神淡路大震災、東日本大震災の2つの出来事をなぞっていると捉えることができる。小説内で震災に触れられる気配はない。むしろ不自然なまでにそれを避けて通っている。これは、そのこと自体が著者にとっての関心事だからなのではないか。初期春樹作品における重要な主題である1960年代の学生運動に、まったく関心が無いふりを装って作品が書かれていたようにである。

本作は、春樹作品で初めて、団塊ジュニア世代を主人公として描かれた長編。春樹はこれまでの大半の作品で、自分と同年代の主人公の物語を書いてきたこともあり、団塊ジュニアが主人公であることは、本作を語る上で重要な要素だ。終盤近くには、つくるが新宿駅を訪れ、オウム真理教による地下鉄サリン事件について回想する場面がある。震災の年であると同時に、1995年は地下鉄サリン事件の年でもあった。

村上春樹の前作『1Q84』は、オウム真理教事件への関心から書かれた小説だったが、今作はそれを20才で迎えた世代への関心から書かれているように感じられる。春樹自身が属する団塊世代にとっての学生運動と、団塊ジュニア世代にとってのオウム真理教事件。これらはどれも「高度資本主義社会」を受け入れきれない人々による反発(もちろん、それは敗北する)であり、どちらの世代にとっても20歳前後の時期の出来事だったのだ。

初出:河出書房新社「村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をどう読むか」を大幅に改稿したもの。




著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

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