« 2014年2 月 | メイン | 2014年9 月 »

2014年3 月25日 (火)

残念なニッポンのインターフェイスの話 このエントリーをはてなブックマークに追加

以下の文章の初出は、2011年2月号の『ユリイカ』ソーシャルネットワーク特集です。なので、3年とちょっと前ということになります。古くなったテクノロジー関連の文章は、いまとなって晒すのは恥ずかしいですが、我ながら支離滅裂ながら、それなりにおもしろかったので、最低限の修正だけ加えて転載しておきます。あと、長いので全部読まなくてイイと思います。

 

■(精)神はインターフェースに宿る

 数年前に流行した「もしも、あの会社が駅の券売機を作ったら」という匿名ブログ(通称「増田」)のジョークネタ投稿がある。

任天堂
    出発地と到着地をなぞると切符が買える
ソニー
    CPUから開発した超高性能マシンが出来上がる(ただし、切符が割高になる)
マイクロソフト
    出発地を入力し、到着地を入力し、出発時刻を入力し、到着予定時刻を入力し、経路を選択し、電車のグレードを入力すると買える
アップル
    画面内で到着地しか入力出来ないがなんとかなる
グーグル
    「○○から××」と入力すると地図と経路付きで購入する切符の候補を表示する
スクエニ
    指定されたミッションをすべてクリアすると購入できる(途中の駅ですべて昇降するとボーナスがつく)
ハドソン
    マイクで叫ぶ


この匿名ブログは極めておもしろい。単にネタのおもしろさとして優れている、というわけではなく、このジョークでしかないように見えるネタが、実は、その企業の本質そのものをえぐり取っているからだ。現代において、その企業の本質は、インターフェースに宿るのものになりつつあるからだ。

グーグルは世界中の情報を集めることを目標としている。ただし、膨大な情報はすべてバックヤード(クラウド)に隠している。そこへのアクセスは、たったひとつの窓口に、ワードを入力することのみによって許される。そして、情報の優先順位はグーグルが決めるが、あくまで選択はユーザーに委ねられる。

アップルは、とにかく「洗練」を追求する。アップル製品には、マウスでもiPhoneでも、ボタンが2つ並んでいるということが基本的に許されていない。さらに、シンプルさが極限まで追求される。フロッピーディスクがまだ使われていた時代に登場したiMacからはからフロッピーデッキが外されたし、iPodからは電源スイッチが外された。これらは、すべてジョブズの一存によって外されたのである。例え操作法がわからなくとも、選択肢がひとつしかないのだから顧客は迷わない。そういう装置をappleはつくるのだ


任天堂は、とにかく身体感覚に働きかける操作重視する。マイクロソフトは常にわずらわしくて官僚的で不親切。ニコニコ動画にとっては、とにかく失礼な弾幕を浴びせるユーザーがコア。後ろの2つは、厳密にはインターフェイスではないが、もうそれに近いものになっているといっていいだろう。


この「券売機」ジョークに取り上げられる企業は、どれも特徴あるインターフェースを備えている。そして、自前のサービス、プラットフォームを持ち、ある程度成功している、又は成功していた企業ばかりだ。独自のインターフェースを持ちながらも、それを普及させることに成功した企業ともいえる。

逆に、ここに登場しないNTTドコモやソフトバンクといった企業は、この「券売機」ジョークに取り上げられるほど、その企業特有の特徴的なインターフェースを持っていないということでもある。とはいえ、それなりにソフトバンクがつくる券売機は思いつく。例えば、複雑な分割払いで切符を売りつけ、最終的には割高の料金を取られるようなものだ。

企業における「インターフェース」の大切さは、ウェブ系企業の専売特許ではない。例えば、スターバックスなんかは、独自のインターフェースをもって成功した企業の1つかもしれない。あのグリーンのロゴと暖色系の内装や、カスタマイズ可能な注文システム、商品を受け取る場所がオレンジのランプの下であるといったおなじみの仕組みは、スターバックス特有の、しかもその企業の本質を示すインターフェースと言える。スターバックスがつくる券売機というのを考えることも可能だろう。


「券売機ジョーク」のフェイスブック版を考えてみよう。券売機の前に立つと、画面には、行き先の駅だけでなく、利用者の知人たちの現在地や最新のステータスが表示されている。そして、行き先の駅名を指定すると、いまその場所の周辺にいる人たちのつぶやきによる最新の情報が示されるはずだ。「リブロ渋谷店は定休日だった」だとか、「○○ショップで芸能人を発見した」といった具合にである。あらゆるサービスが「知人との関係」と結びいたものとして提供される。

フェイスブック券売機は、行き先の決まっている場所への移動においては魅力は薄いが、遊びに行く場合であれば、かなり使えそうだ。今日は大勢で飲みたい気分だから、友だちが集まっている新宿に行ってみるかなどといった具合に、行き先を検討するためのツールになるかも知れない。この場合、券売機はただの切符を買うための機械でなく、遊び場に接続するためのプラットフォームになる。

■ソーシャル・ネットワークとしての仮想空間OZ

 2009年公開のアニメ映画『サマーウォーズ』で描かれる仮想空間OZは、ショッピングが楽しめ、映画、音楽、ゲームなどのコンテンツにアクセスできるという一種のSNSのようなものだ。この中には、世界中の企業の支店が置かれているし、行政機関、地方自治体の窓口が納税から各種手続きを受け付けてくれる。そんな、あらゆるサービスが提供されるオンラインコミュニティが、暴走プログラムによってクラッキングされ、現実世界のインフラが麻痺させられてしまうという騒動(ハッカー用語で「ファイヤーセール」)が描かれる。

OZを考える上で重要なのは10億人というユーザー規模である。当然、多数の国籍をまたぐネットサービスが想定されており、さまざまな言語を持つユーザーが共存している。会話はリアルタイムで翻訳され、言語の違いを気にせずに会話ができる。OZの守り主の鯨のアバターが「ジョンとヨーコ」と名付けられているのは、「国境のない世界を想像してごらん」というジョン・レノンの歌が実現した世界ということなのだろう。作品内では、こうしたグローバルなコミュニケーションが牧歌的なものとして描かれるわけだが、実際にOZが存在するとすれば、それは牧歌的なだけではないはずだ。

映画公開当時、筆者がこの作品を観ながら考えたのは、OZの運営・管理主体はどこ国籍の企業、もしくは事業体なのだろうということだった。この世界の中ではどこの国の法律が適用され、どの通貨と結びついているのか? だが、フェイスブックという5億人(注:これ書いたのは、4年前です)のアクティブユーザーを抱えるソーシャルネットワークが登場した時代においては、それに気を回すことのナンセンスさに、頭の鈍い筆者でも気づかざるを得ない。

OZは、企業や事業体が、一枚岩で運営する巨大なウェブサービスではなく、プラットフォームなのである。おそらくは。個々のサービスは、共通化されたインターフェースの上でサードパーティのデベロッパーによって制作・運営されているのだろう。いまのフェイスブックは、まさにそういう存在になりつつある。2008年、フェイスブックはAPIをオープン化し、フェイスブック上で動くアプリや独自サービスの運営を許可し、他者がフェイスブック上でビジネスを自由に行えるようにした。CEOのザッカーバーグが以前から温めていたフェイスブックのプラットフォーム化戦略を一気に展開させたのだ。

フェイスブックは、翌年、「マイスペース」のアクティブユーザー数を抜いて世界一のSNSなった。調査会社のHitwiseは、2010年にフェイスブックがグーグルをトラフィックで抜いたというデータを示した(他の調査会社は違う結果を出ているが)。
「フェイスブックは国や年齢を問わずあらゆる人々のためにあります」(『フェイスブック 若き天才の野望』日経BP、訳/滑川海彦、高橋信夫)とザッカーバーグはジョン・レノンのようなきれい事を放つが、もちろんこのサービスの中では、とても牧歌的とはいえない出来事も起きている。サウジアラビアで、複数の男友だちを友人登録した娘を父親が殺すという事件も起きた。


ただし、こうした問題は孕みながらも、現在のフェイスブックは、いまだ世界が経験していない規模のネットサービスへと成長している。メディアや企業の多くが、自分たちのリンク先を公式サイトではなく、フェイスブックのファンコミュニティに設定する傾向が生まれ始めている。ミュージシャンたちが、レコード会社の公式サイトよりも、マイスペースを自分たちのアドレスにし始めたのと同じである。そちらの方が、情報の精度が高い信頼の置けるアドレスになりつつあるのだ。


フェイスブックは、すでに単なるSNSの運営主体ではない。あらゆるネットサービスが乗っかっていく可能性のあるプラットフォームである。ネット上のあらゆるサービスが、この上で開設される可能性がある。国家や行政機関の窓口ができたり、国際的テロ組織(例えばアルカイダ)のファンページが置かれたりするのは時間の問題のように見える。 

■内輪を再強化するソーシャルネットワーク

日本でフェイスブックが流行しない(注:当時そう言われていた)のは、匿名中心のインターネット文化を持つ日本に実名登録が基本のフェイスブックの文化に合わないからという分析がある。だが、それ以前の問題であるようにも思える。

サービス単体としてみた場合、日本でもっともフェイシャルブック的なツールは、ミクシィよりもむしろ「プロフ」や「リアル」と呼ばれるSNS群であるように思う。これらは、中小のサービス主体が運営するもので、主に中高生をターゲットにしている。ここにモバゲーやGREEといった、元々SNS、現在は主にソーシャルゲームの提供プラットフォームを加えると、日本のSNS事情がよく見えてくる。どれもが、ケータイ端末上で動くことを前提としたサービスなのだ。

日本でもっともヘビーに携帯電話を享受しているのは、一〇代のいわゆるギャル層である。いや、彼女たちは享受ではなく、もはや依存している。ポケベルの時代からこの年代がモバイルサービスを制してきたが、それがケータイ小説(「魔法のiらんど」も広義にはソーシャルネット)や西野カナ・加藤ミリヤの着メロディーヴァ系(もしくは“ギャル演歌”系(c)鈴木謙介)といった、コミュニケーション依存症な“あいたい・せつない強迫症”カルチャー(“つながりの社会性”(c)北田暁大)にまで発展。どこからとなく「日本の残念なインターネット」という言葉が聞こえてきそうだが、個人的には誇るべき文化なのだと思う。せつない……。


一方、米のフェイスブックは、創業者のマーク・ザッカーバーグがいたハーバード大学の寮名簿から始まっている。ファイナルクラブというハーバード大学の中のさらにエリートだけが選抜される秘密クラブのメンバーがつくった「ハーバード・コネクション」というサービスが、フェイスブックのアイデアの源だった。以後、フェイスブックは、有名大学を少しずつ引き込み、その学校のアドレスを持つ学生しかアクセスできない身内向けのSNSとして拡大していく。

アメリカでは、もっともPCを使いこなす層であるアイビーリーグのエリート大学の学生から派生し拡大したが、日本のSNSは、“ミクシィ”の一部を除いて、中高生のケータイユーザーに浸透した。

この辺りの差異に、日米のインターネット文化の違いなのかもしれない。つまりは、残念なインターネットとそうでないインターネットの。日米のSNSの発展過程は、まったく違う文化圏で発生し、違った発展過程を見せるが、どちらも内輪の強いコミュニティをさらに密接するという意味においては、そんなに大差はないかもしれない(モバゲーやGREEでゲームだけする層は別だが)。どちらもハイコンテクストであり、とても排他的だ。輪の外にいる人との関係をアシストしてくれる存在ではなく、内輪の関係を強固する。「更なるモテのため」((c)古市憲寿)にSNSは発展する。

さて、『サマーウォーズ』もそういう意味では、階層を描いていた。この作品への批判のテンプレとして、プレ近代な大家族がグローバルなネットに電話一本で立ち向かうという部分に非現実性が指摘されたり、昭和ノスタルジー乙といった揶揄が散見される。だが、これは間違っている。『サマーウォーズ』において、ソーシャルネット(OZはソーシャルネットのようなものである)で強化されるのがとてもドメスティックな、信州の真田家の末裔というレガシーシステムであるというのは、なるほど正しいチョイスなのではないか。

余談になるかもしれないが、貴志祐介の『悪の教典』も、強化された狭いソーシャルネットワークを破壊するきわめて現代的なサスペンスであった。

主人公・蓮実が受け持つ二年四組では、携帯を駆使したカンニングが跋扈し、学校裏サイト(これも小規模のソーシャルネット)でのコミュニケーションが盛んである。主人公である担任の蓮実は、サイコパスだ。このクラスを支配下に置き、好きなように扱おうとする。その彼が用いるのは、多次元尺度更生法による二次元分析チャート。クラスの生徒から集めたアンケートで集めた親密度を距離に置き換えて、「ソーシャルグラフ」(人間関係図)を作成するのだ。これによって、クラス内が5つのグループに分かれていることを把握。自分がコントロールしやすいグループとそうでないグループの中間にいる少女を陥落して情報屋に使い、情報を収集。邪魔な生徒を学校裏サイトを操作して、追い詰めていく。最後には、このクラス全員を崩壊に追い込もうとするのだが……余談だが、教室という人間間の狭い関係性を描いたおすすめの作品である。

■憎まれそうなニューフェイス

アンドロイド陣営とiPhone陣営のプラットフォームを巡る争いという構図で、経済誌などが特集をしている昨今。いまのところの主戦場は、そんな具合にスマートフォンの周辺のようだが、これはすぐにグーグルTV対アップルTVといった具合に移行するのだろう(注:しませんでしたねー)。今後もさまざまなデバイスで、グーグル対アップルのプラットフォームを巡る陣営競争は続きそう。

だが、前田敦子と大島優子がセンターの座を巡る熾烈な争いをしている内に(何度も言うが、4年前の記事の再掲です)、横から板野友美がソロデビューを決めたように(注:今何してるんだろう?)、現状のフェイスブックの勢いは、誰もが期待と疑問を持ちながら眺めているといったところだろう。特に、日本では普及していないこともあり、ピンと来ない部分も多い。

言葉を打ち込まないとどこにも到達できない砂漠の真ん中のようなグーグル的検索世界から、コミュニティありきのソーシャルネット的な世界へ。グーグルのトラフィックをフェイスブックが超えるというのは、こうしたインターネットの段階の変化を意味しているかも知れない。

個人的には、グーグルとアップルとフェイスブック(原注:アマゾンは棲み分けができそうだ)による、三つ巴のプラットフォーム争いが見たい気がする。まずは、世界の鉄道の券売機というデバイスを巡って熾烈に争うべきである。石原莞爾や諸葛孔明的に、三者が争いに疲弊したときこそ、日本のインターフェースがこのプラットフォーム争いに切り込みをかけるチャンスと見るのもいいかもしれない。せつない。

 

著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

検索

  • 検索
     

Amazon

 
Powered by TypePad
track feed