« 自動車とポップス~ドライバーシートと助手席の攻防を巡るアンダーステアな40年史 | メイン | ポン・ジュノ作品と日本の任侠映画で比較する日韓の都市化・近代化 »

2010年5 月31日 (月)

長髪時代の終わりとパンチパーマの起源 このエントリーをはてなブックマークに追加

かつて、理容業界では若者の理髪店離れが問題になった時代があった。

それは、グループサウンズや吉田拓郎らフォーク勢が若者のアイドルとして台頭し、ヒッピー族、フーテン族が跋扈した70年前後のこと。当時の人気歌手の長髪をみんなが真似たのだ。

当時の大スターである吉田拓郎に♪僕の髪が肩までのびて♪(『結婚しようよ』)と歌われてしまっては、世の理髪店にとっては大打撃以外のなにものでもない。ほんと営業妨害。

そんな危機的状況には、業界として立ち向かう必要がある。そこで立ちあがったのが、全国理容環境衛生同業組合連合会(全理連)である。全理連は、緊急プロジェクトチームを結成する。そして、長髪ブームを終わらせようと、ロン毛に変わるファッション性の高いショートヘアスタイルの開発に乗り出したのだ。

冗談のような話だが、事実である(参考文献『ヤクザ・風俗・都市―日本近代の暗流 』朝倉喬司 )。

全理連が開発したパンチパーマは、彼らの目論見どおり若者の間で流行する。その普及にはひとりの青年が貢献した。その青年とは、『銀座NOW』出身で、`77年に『失恋レストラン』でデビューした歌手の清水健太郎だった。


Shimiken シャイで硬派なイメージで売り出されたシミケンは若者たちの新しいアイドルとなった。彼の真似をした若者は、こぞって彼の髪型を真似た短めのウェービーなヘアスタイルにしたのだ。

当時彼の髪型は「健太郎カット」と呼ばれていた。全理連は、彼をポスターのモデルとして起用し、床屋の店頭にかざられていた。そう記憶している。

この当時、僕自身はまだ小学校にも満たない子どもだったが、その後、10年ばかりは常に床屋にとっての理想ヘアスタイルがシミケンのまま更新されなかったから、その雰囲気を覚えているといった程度であるのだが。

ちなみに「健太郎カット」はいまでも「カットチャンピオンの店」と看板が掛かっているようなオールドスクールな床屋ではいまだに推奨されているような気がする。

清水健太郎=パンチパーマというイメージは強くある。だが、実は結構間違っているのではないだろうか。彼の髪型が徐々にウェーブを増していくのは確かだ。ただし、パンチパーマというわけではないように思える。ただ、本人の男前度や顔から受ける印象の問題もあり、なぜかちょっとしたウェービーヘアーが、パンチパーマという印象に変換されてしまう。

ちなみに、当時のパンチパーマとは、「ニグロパーマ」などとも呼ばれ、親しまれていた。アイパーとパンチの呼び名の違いは、道具の違いなど技術的な用件に規定されるモノのようだが、ここでは議論の対象にしない。

正確なことはわからないが、パンチパーマという髪型が暴力団組員の定番として定着したのは、そんなに古いことではないのではないか。定着したのはシミケン登場以降のような気がしている。少なくとも、`73年にシリーズがスタートした実録風やくざ映画『仁義なき戦い』のシリーズにはパンチパーマのキャラクターは1人も出てこない。

菅原文太は角刈り、小林旭はきっちり七三である。これは時代考証的なもの込みの話なのかも知れないが。

さて、『失恋レストラン』では、恋に破れ「ポッカリあいた胸の奥」を満たす「飯」を出すレストランが舞台だったやくざ=パンチパーマというイメージが定着するのは、シミケンのその後の人生と密接に結びついているのかもしれない。彼の「ポッカリあいた胸の奥」を埋めたのは飯ではない別の何かだったのだが、それは大人の事情が絡む内緒の話であった。

余談だがこのブログを書いている僕の名は速水健朗である。その字面のせいか、いまだに「シミズケンタロウさん」と病院の受付などで呼ばれることは少なくない。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://www.typepad.com/services/trackback/6a01287743ed7b970c01348052c5b7970c

Listed below are links to weblogs that reference 長髪時代の終わりとパンチパーマの起源:

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

検索

  • 検索
     

Amazon

 
Powered by TypePad
track feed