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2009年7 月 3日 (金)

追悼:マイケル・ジャクソン帝国と1984年(後編) このエントリーをはてなブックマークに追加

■コーラ戦争とマイケル

この時代に世界に進出したアメリカは、マイケルだけではなかった。ここからは音楽以外の1984年にも視野を広げてみる。

1984年に開催されたロサンゼルス・オリンピックは、オリンピックの商業化の始まりの大会として知られる。大会委員長務めたP.ユベロスは、各業種一社というルールで公式スポンサーを募り、大会運営を黒字化することに成功する。

五輪公式スポンサー第一号はコカ・コーラだった。その狙いは、まだコカ・コーラが浸透していないアフリカをはじめとした第三世界にライバルより早くコーラを売り込むこと。そのためコカ・コーラは、1982年のW杯スペイン大会、1984年のロス五輪と、世界的に注目されるスポーツイベントに莫大な広告費をあてたのだ。

さらに、この当時は「コーラ戦争」の時代でもあった。コカ・コーラとペプシコーラは互いに多大な広告費を使ってマーケティングに取り組んでいた。ロス五輪の公式スポンサーを巡る争い(コカ・コーラが提示した入札額は1260万ドルだった)に敗れたペプシは、マイケルとCMの契約を交わす。確かにマイケルなら国境や人種を越えた影響力を持ち、五輪にも唯一対抗できる存在だった。コーラ戦争は、オリンピックとマイケル、スポーツとポップミュージックを第三世界進出の架け橋として利用する、20世紀初頭までの植民地戦争の第二回戦でもあった。

Pepsi

1984年にCMバージョンの『Billy Jean』が使われたマイケルのペプシCMが流れた。この年、ペプシはシェアを1.5%伸ばし、コカ・コーラは1%下げている。この数字から、オリンピック対マイケルの戦いはマイケルの勝利に終わったと言えるかもしれない。

■ディズニー帝国の1984年

両コーラに並ぶアメリカナイゼーション、グローバル化の象徴がディズニーである。もちろんマイケルも大好きなあのディズニー。1984年は、ディズニーにとって転機の年だった。ディズニーアニメのヒットは途絶え、ディズニーランドの客足も減少の一途。そんな凋落時代のディズニーを救ったのは、パラマウントから来たマイケル・アイズナーである。

1984年にディズニーの経営を任されたアイズナーは、ケーブルテレビ局の買収やビデオソフトの販売を通して、過去のディズニーの遺産を商品として復活させ、実写映画への積極的な参与といった多メディア展開を始める。そして『美女と野獣』や『アラジン』といった新しい時代のディズニー映画を生む下地を制作部門内に作った。また、ディスニー帝国の足がかりもこのころに始まっている。1983年は東京ディズニーランドが誕生した年でもある。米国以外に進出したディズニーランドの第一号である。

Eo

ちなみにアイズナーは、ABC時代にジャクソン・ファイブをモデルにしたアニメ番組の制作に携わっていたことがあり、その縁からマイケルはディズニーランドのアトラクション「キャプテンEO」で仕事をすることになった。

マクドナルドやコカ・コーラ、そしてディズニーといった企業は、国家や領土の枠を超えて経済活動を行うグローバリゼーションを代表する企業。彼らを帝国主義時代の覇権になぞらえて“帝国”と呼ぶことがある。コカ・コーラ帝国にディズニー帝国といった具合だ。そして、この時代に米国文化として世界を席巻したマイケルもまた、帝国付きで呼ばれるべき存在だろう。マイケル・ジャクソン帝国。ただし、他の多国籍企業とは違い、この帝国だけは没落へと向かう。

■ジェシー・ジャクソンの1984年

さて、マイケルの年であり、グローバル化の転機でもあった1984年だが、アメリカの黒人の歴史という視点から眺めると、実に暗黒の時代であったことがわかる。81年に大統領になったレーガンが「強いアメリカ」を打ち出し、軍事費を増長、ドルの高騰を生む。国内の産業は打撃を受け、自動車産業をはじめとした失業率は高くなった。そして、アメリカ全体が保守化に向かっていた。

こうした流れは、黒人の権利拡大を訴える公民権運動にはマイナスに作用した。これまでは通っていた黒人の権利拡大の主張は、政府からも世論からも背を向けられるようになったのだ。そんな危機感から当時40代前半だった黒人の政治活動家のジェシー・ジャクソンは、レーガン政権を倒そうと、1984年の再選時、民主党内の大統領候補として立候補する。これは健闘と言っていい数字なのだろうが、ジェシー・ジャクソンはウォルター・モンデールとゲーリー・ハートに次いで3位になった。

結局、1984年のレーガン再選をかけた選挙は、レーガンが地すべり的とも言える勝利をおさめた。

ちなみに、このときのジェシー・ジャクソンは、マイケル亡き後、その遺族のスポークスマンを務めている人物である。元々、マイケルとは家族ぐるみのつきあいがあったという。

黒人の公民権運動にまつわる文化のすべてをR&Bと呼ぶと主張するジャーナリストのネルソン・ジョージは、この政治的な敗北、そして80年代初頭の黒人音楽の「クロスオーヴァー」現象を指して、「R&Bの死」と呼んでいる。マイケルの肌が白くなっていくのが、それを象徴する出来事として重ねることができるだろう。

そして、1984年から四半世紀が過ぎた。マイケルにとっては、25年前が頂点であり、それ以後は転落の一途といっていいだろう。『スリラー』で自ら作った壁が、自分の行方を遮ったのだ。小児性愛を巡る数々のスキャンダル、そしてみるみるうちに変化した肌の色と顔の形。そうしたすべてが、メディアの上でさらされる「スーパースター」という商品として世界中が消費した。正直、これほどおもしろいエンターテインメントはなかったし、もの悲しい帝国もなかった。

しかし、25年経った今年、バラク・オバマという黒人大統領が生まれた。あのときのジェシー・ジャクソンのジュニアが、政治家としてオバマ陣営を支えている。2009年はバラク・オバマが大統領になり、マイケル・ジャクソンが死んだ年として覚えられることになるだろう。

追悼:マイケル・ジャクソン帝国と1984年(前編) このエントリーをはてなブックマークに追加

*ビジスタニュースに書いたものに加筆修正を加えたものです。

ベストセラー街道ばく進中の村上春樹の新作『1Q84』には、マイケル・ジャクソンの「Billy Jean」がカーステレオから聞こえてくる場面がある。この小説の舞台である1984年は、ヤツの年だった。

スリラー(紙ジャケット仕様)

この曲が収録されたアルバム『スリラー』は、この年、日本で最も売れたレコードとなった。アメリカでは総計2700万枚のヒットを記録し、1983、1984両年のもっとも売れたアルバムとなる。そして、全世界での売り上げは約1億500万枚。『スリラー』がこれほどまでに世界を席巻した1984年とは、アメリカ、そして世界にとってどのような年だったのだろう。『スリラー』が世界で1億枚のヒットを記録した当時の時代状況を踏まえて触れてみる。

■MTVが登場し、音楽が総合エンターテイメントになった80年代

黒人音楽ジャーナリストのネルソン・ジョージは、70年代を「クロスオーヴァー」の時代と呼ぶ。「クロスオーヴァー」は通常、ジャズとロックの垣根を越える音楽のことを指すが、ネルソン・ジョージは、黒人音楽が白人の市場に取り込まれたこの時代の状況をなぞらえて、あえてそう呼んでいるのだろう。とにかく、大手メジャーのレコード会社は、黒人歌手のレコードを売るビジネスが、大きなビジネスになることに気付き始めたのが70年代。

そんな70年代の末にジャクソン5は黒人が経営するモータウンを離れ、大手メジャーレコード会社であるエピックに移籍することになる。この少し後、モータウンからダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイも、1982年にそれぞれRCA、CBSと白人系の大手レコード会社に移籍している。

ジャクソン5、ジャクソンズと経たマイケルが、ソロとして発売した『Off The Wall』(1979)は、それまでの黒人のレコードではありえなかったジャーニーやビリー・ジョエル並の広告予算がつけられた。結果、このアルバムは900万枚という、当時の黒人音楽史上最大のヒットを記録する。黒人のレコードはビッグビジネスになるという大手メジャーの目論見は見事当たったのだ。

そして、その3年後に発売された『スリラー』には、それを上回る規模で宣伝が行われ、『スリラー』は米で2700万枚(総計)を売るモンスターアルバムになった。そして、世界の市場をあわせると1億枚以上。もはや、黒人だ白人だという枠を「クロスオーヴァー」する世界的なビジネスになった。だが、この後にも先にも単独アーティストとしてこれだけの枚数のアルバムを売った例はない。それは、この時代だったから可能だったという理由があったのだ。

■なぜマイケルでなくてはならなかったのか?

ジャーナリストのネルソン・ジョージは、マイケルの登場がなければ彼の替わりに、ライオネル・リッチーが黒人のスーパースターになっていただろうと指摘している。70年代人気グループ・コモドアーズを抜けたリッチーは、黒人のスタッフを遠ざけた(これはマイケルもそう)。そして、カントリー歌手だったケニー・ロジャースをアメリカで最も人気のある歌手に仕立て上げた敏腕白人マネージャーを雇う。そして、R&B歌手の自分をアメリカで最も有名な歌手に仕立てるべく、白人市場を開拓する「クロスオーヴァー」戦略を自ら選び取っていく。

そして、リッチーは確かに80年代を代表する歌手の一人になった。だが、マイケルやスティービー・ワンダーのような世界的なスーパースターになったとまでは言えないだろう。リッチーがマイケルになれなかったのは、1981年に始まったMTVのせいだ。MTV以降、ポップスの歌手はただの歌い手ではなく、総合的なパフォーマーであることを求められるようになった。精悍なマスクを持ち、手足が長く、驚異的なダンスの技術を持ったマイケルは、MTV時代に相応しいスターだった。錦糸町のおばちゃん並の洋服センスと、どうしても成金趣味がにじみ出るライオネル・リッチーは、MTV向きの歌手ではなかったのだ。

■アメリカ発、世界市場向けの商品

MTVの登場で、米の音楽産業はメディアを「クロスオーヴァー」する総合エンターテインメント産業に変わる。そんな80年代、音楽の市場規模は急速に拡大していく。ロックの時代には存在した言葉の壁を、MTVの映像が取っ払ったのだろう。ロックのリズムは届いても、英語で歌われるメッセージは非英語圏にまでは届かなかったが、墓地でゾンビに襲われる映像は英語がわからなくとも届いたのだ。

日本においても、割合において、この時代ほど洋楽が売れた時代はなかった。それは、MTVが果たした役割が大きい。だが、90年代以降、再び洋楽の地位はまた下がっていく。ひとつにはJポップの台頭があった。そして、それだけではなく、90年代以降のアメリカの音楽産業は、80年代のように全世界に向けたユニバーサルな音楽よりも、狭い範囲に向けた商品を指向するようになった。これは、マーケティング手法の変化や政治状況と結びついているのだろう。

ライク・ア・ヴァージン

さて、80年代、MTVが生んだもう一人のスターがマドンナだった。彼女の『ライク・ア・ヴァージン』は1984年のアルバム。彼女は、世界が知る「わかりやすいアメリカ」であるマリリン・モンローに似せたルックスで登場し、「アメリカ発、世界市場向け」の世界戦略商品になりすました。マテリアル・ガール。

一方、マイケルは、世界の市場に受け入れられる商品になるべく、自分の身体に改造を加えていく。マイケルは、黒人と白人をクロスオーヴァーする存在から、アメリカと世界をクロスオーヴァーする存在にならざるを得なかった。黒人でも白人でもないユニバーサルな人種、そして男でも女でもない性別になろうとして、マイケルはその肉体を変貌させてゆく。

(つづく)

追悼:マイケル・ジャクソン帝国と1984年(後編)

著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

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