« 映画『フラガール』感想 | メイン | PRIDEがUFC(ハゲタカ)に買収されちゃうの?  »

2007年3 月20日 (火)

川内康範先生と永山則夫の60年代 このエントリーをはてなブックマークに追加

川内康範先生は本当におもしろい。それはいろんなところで語られているので省略(ココとか)。永山則夫と関わりの話。

1969年に捕まった連続射殺魔事件の犯人、もしくはピストル魔・永山則夫は集団就職で15で東京で就職し、殺人で捕まる前は新宿のジャズバーのボーイなどを転々とした、今で言うフリーターだった。

永山が逮捕される3日前までボーイとして働いていた新宿のジャズ喫茶ビレッジバンガードで、ビートたけしがアルバイトをしていた話は有名だし、永山と同い年村上春樹は、永山が一人暮らしをしていた都立家政(駅名)のアパートで1人暮らしをしていたという共通点をエッセイに書いている。

また、同郷の寺山修二が彼の境遇にシンパシーを抱き、一時肩入れしていた。永山の生まれは北海道の網走番外地だけど、幼少期には青森に住んでいた。

その永山則夫が好きだった歌が『骨まで愛して』。これは川内康範先生作詞で、その甥であった城卓矢の1966年のヒット曲。とくに関係は無いだろうが川内康範先生も青森出身のようだ。

当時、新宿にたむろしたりする若者たちは、ジョン・コルトレーンやローリングストーンズやレッド・ツェッペリンなんかを聴いていたんだと思うけど、極貧の環境で育った永山には消費文化を受け入れる下地がなかったのかビートルズすら理解できなかったらしい。ジャズ喫茶のボーイも、生活のために選んだ職場というだけだった。そんな永山の耳にも響いたのが『骨まで愛して』(1966年)だった。自らの小説『異水』の中でもそっくり引用している。

川内先生の代表曲、「骨まで愛して」からは、川内先生の異常な骨への執着や、一貫してテーマにしてきた“情死”との関連を垣間見ることができる。

先生が戦後、尽力してきた運動に「戦没者の遺骨引き上げ運動」がある。戦地で死んだ者たちの亡骸を遺族の元に届けたいという思いには、心が打たれる。仏教は、骨への執着の強い宗教と言われている(仏舎利とか)が、骨への想いにはまだ奥があるのかもしれない。また、『骨まで愛して』という曲は、1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故で遺族が浮かび上がった遺体を抱きしめる遺族に突き動かされて書いた詞であるという(本人談『箆棒な人々―戦後サブカルチャー偉人伝』)。『骨まで愛して』のレコードのヒットも同2月の出来事。当時は2週間くらいでレコードが作れたのかについてはちょっと気になるが。

ちなみに永山則夫に話を戻すと、彼はは1969年4月、19歳の時に明治神宮北参道の辺り逮捕された。この同じ月に21歳の森進一が『港町ブルース』を発表している。森もまた中学卒業と同時に上京した集団就職の一員で、苦労して歌手になった口だった。この曲で森はレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞し、紅白でトリをつとめている。

川内康範先生研究に関しては、日蓮宗の寺に生まれているという部分も重要かも。戦前のテロリズム、右翼史と日蓮はきっても切れない(川内先生はただの右翼じゃないとはいえ)。五・一五事件、北一輝と二・二六事件の主なメンバー、血盟団事件の井上日召などは皆、日蓮主義者。満州事変の石原莞爾も石原慎太郎もそう。川内先生は、いま都知事選に立候補したら、当選間違いないね。

城卓矢/全曲集
城卓矢/全曲集
posted with amazlet on 07.03.20
城卓矢
東芝EMI (1989/06/07)
涙の射殺魔・永山則夫事件―六〇年代の少年犯罪
朝倉 喬司
新風舎 (2007/02)
売り上げランキング: 93357

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://www.typepad.com/services/trackback/6a01287743ed7b970c0120a840c897970b

Listed below are links to weblogs that reference 川内康範先生と永山則夫の60年代:

コメント

コメントを投稿

著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

検索

  • 検索
     

Amazon

 
Powered by TypePad
track feed