コカ・コーラの第二次世界大戦
1941年12月8日。ハワイ真珠湾に攻撃を仕掛けた日本軍の爆撃機が四台のコカ・コーラのクーラーボックスを破壊した。
コカ・コーラというアメリカの象徴を破壊した事実が、その後の戦局に大いに関わってくることになろうとは破壊した爆撃機に乗っていた日本兵も、山本五十六将軍も露とも思わなかっただろう。
■軍需品となったコカ・コーラ
コカ・コーラ社の社長で、戦争に対して協力的あったロバート・ウッドラフは、日本との戦争勃発に際し、以下の号令を発する。
「われわれは軍服を着たすべての兵士が、どこで戦っていようと、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、五セントのびん入りコカ・コーラを買えるようにする」
これはただのはったりではなかった。コカ・コーラは米軍にとって弾薬や食糧と同じくらい、いや、時にはそれ以上に重要な軍需品となってゆく。
ウッドラフの命により、コカ・コーラ社は政府が発足した砂糖配給委員会に工作員を送り、軍隊向けのコカ・コーラ販売用の砂糖に配給適用除外という特例を認めさせることに成功する。これによってコカ・コーラは軍需物資と認められた。
以後、第二次世界大戦中、コカ・コーラのビン詰め工場は南極大陸以外のすべての大陸、計 64箇所に建設された。また軍隊に随行するコカ・コーラのエンジニアは「技術顧問(T・O)」の地位が与えられ、将校並の優遇を受けたという。
『パットン大戦車軍団』『バルジ大作戦』で有名なパットン将軍は転戦する戦地に必ずコカ・コーラ社のT・Oを随行させ、ビン詰め工場を設置させたという。また、後に大統領になるアイゼンハワー将軍も北アフリカの戦線より「弾薬とコークを送れ」との電報を本国に向けて発した。 彼らは兵士たちの士気を考えてコーラを重要視しただけではなく、自らもコーラを好んだ。パットンはラム・コークが好きだったし、アイゼンハワーもコーラ信者で尚且つウッドラフとはゴルフ仲間だった。
米軍はあらゆる困難を乗り越え兵士たちにコカ・コーラを配給し続ける。中国にビン詰め工場を建設するためにヒマラヤ越えまで行なった。サウジアラビアからビン詰めコカ・コーラを目一杯積載して離陸した輸送機は積載量オーバーで高度が上がらなかったが決してコカ・コーラを放り投げることは無かった。
兵士さながらに働くコカ・コーラマンたちに給料を払ったのはコカ・コーラ社ではなく米軍だった。
■進駐軍から日本に上陸するコカ・コーラ
日本でコカ・コーラが製造されるきっかけはやはり進駐軍による占領期のことだ。
キッコーマン醤油の前身であった醤油問屋の経営者であった高梨仁三郎は、終戦後の1947年に、いかがわしい情報屋よりコカ・コーラの販売権に関する情報を得る。その情報屋を介し、GHQの要請により本国より派遣されていたコカ・コーラ社の代表者レイモンド・O・スペンサーと知己を得ることになる。 終戦翌年の1946年から1952年にかけて、日本では進駐軍の兵士の需要を賄うために札幌、仙台、東京、横浜、神戸、小倉の6つのコカコーラ工場が建設されるが進駐軍の撤退に合わせ規模が縮小。結局国内のビン詰工場は2箇所に集約されるが、その東京・芝浦工場を高梨がスペンサーの口利きで買収することになる。
これと同じようなことが世界の各地で起こっていた。戦争が終わると、米軍の多くは時刻に撤兵していくが、米軍が持ち込んで作らせたコカ・コーラ工場は、現地法人に安く払い下げられた。
コカ・コーラ社はフランチャイズ方式で原液を販売し、ワールドワイドにビジネスを展開し始めた。ただの砂糖水業者から軍需産業となったコカ・コーラ社は、大戦が終わると今度は多国籍企業となったのだ。兵隊は去ってコカ・コーラというアメリカの象徴だけが残った。
【参考資料】 コカ・コーラ帝国の興亡―100年の商魂と生き残り戦略 コカ・コーラへの道―挑戦と忍耐と先見でコークの時代をひらいた高梨仁三郎

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