2015年5 月19日 (火)

島国ニッポンにおける「独立構想」の系譜 このエントリーをはてなブックマークに追加


日本という社会が抱えている閉塞感とは何か。領土を海で覆われた島国で、言語も通貨も国内限定流通するのみ。この国に生まれた人間の多くは、この国で生活し、子を産み、育て、そして死んでいく。

歴史を見ると、幾度も政治体制の変化を経てきたし、他国からの占領も経験したが、江戸の将軍も明治政府もGHQの占領もすべて、天皇というシステムを利用してこの国の統治を行ってきた。日本列島が一つの国としてイメージされるようになったのは、ごく近代のこととはいえ、まるで長きにわたって神の国が維持されてきたようなイメージさえ共有されている。

表面的には、極めて変化に乏しい国なのだ。人々は、むしろ変化に気づかないふりをすることに長けている。一例を挙げると、「敗戦」が「終戦」に書き換えられるのが典型的だ。変化を覆い隠す技術が磨かれてきたのだ。

一方で、この国では、幕末を舞台にした小説やドラマに人気が集まる。国の体制が、若い志士たちの力で変化する。そんなロマンに溢れた時代変革期に、活躍した坂本龍馬や木戸孝允といった人物たちは、とても人気がある。ただし、彼らを愛してやまないのは、もっとも変化を恐れる中高齢のビジネスマンたちである。彼らは、この国で最も変化を望まない人々である。

そんな変化に対するジレンマにあふれたこの国だからこそ、「日本からの独立」というモチーフを描いたフィクション群が、いつの時代にも存在するのかもしれない。この論考では、そうした「日本からの独立」物語の代表的なものを、簡単な分類とともに紹介しながら、「この国で独立を考えること」について考えてみたい。

■吉里吉里人と新左翼のその後

日本からの独立をモチーフにした小説でもっともよく知られているのは、1981年にベストセラーとなった井上ひさしの『吉里吉里人』である。

岩手と宮城の県境近くに位置する架空の山村「吉里吉里」が、ある時突然、独立を宣言する。彼らは4200人の国民と、公用語の「吉里吉里語」(実際にはいわゆるズーズー弁)を持っている。そして、「イエン」という独自通貨を発行し、科学立国という志を掲げている。彼らは、日本からの独立という行動を、数年の歳月をかけて計画的に準備してきたのだ。元々作物は豊富であり、農作物の自給率は100パーセント。エネルギーは、地熱発電所を擁しているため自前で賄うことができる。

この物語の舞台が東北であることには、大きな意味がある。東北は、東京を代表する都市部に食糧を提供する穀倉地帯であり、労働力の提供元だった。いわば、国内に存在する植民地と見ることができる(以後、そこに原発によるエネルギーが加えられることになる)。1970年より始まる、米の生産調整、減反政策は、その東北をないがしろにする政策だった。吉里吉里人の「日本からの独立」の背景には、そんな日本の政策転換があった。
 こうした日本からの分離独立を描く『吉里吉里人』の背景には、1970年代初頭の新左翼運動の挫折が透けて見える。

日本の新左翼運動が退潮する瞬間とされるのは、1972年のあさま山荘事件とその後の山岳ベース連続リンチ事件の発覚だった。連合赤軍の連中の一連の行動は、自らを兵士として鍛え(それ自体を彼らは「自らを共産主義化する」と呼んだ)、銃を使って政治体制の変更しようとしたが、その路線は完全に道を閉ざされた。
 その後、武力革命を強硬する路線を捨てた新左翼の運動家たちは、有機農法や消費者運動などを用いて、新しいコミュニティの実践に乗り出していく。このような新左翼運動の論戦変更、強行革命路線から自主独立への方向転換。これに、東北の歴史とアイデンティティという要素を重ね合わせたものが『吉里吉里人』なのである。

■独立国に軍備は必須か

連合赤軍が他の新左翼運動と大きく違ったのは、彼らが軍備を持とうとした部分だ。銃砲店を襲い、ライフルや弾丸を奪った彼らは、最終的に追い詰められたあさま山荘にて、警官隊との銃撃戦を繰り広げるに至る。一方、独自通貨から公用語、独自エネルギーまで兼ね備えた吉里吉里国だが、軍備となるととたんに心許ないものになる。吉里吉里国の陸空の防衛に当たるのは「吉里吉里防衛同好会」という頼りない名前の組織でしかなかった。それでも、軍備は独立国家に不可欠なものなのである。

軍事史家のマーチン・ファン・クレフェルトが1991年に刊行した『戦争の変遷』(日本版刊行は2011年)は、国家同士が、政府が使う軍隊同士で戦うような、「大規模な通常戦争ーー今日の主要な軍事国家が戦争と認識する戦争ーーは確かに消滅しつつあるのかもしれない」ということを前提として、新しい時代の戦争の在り方を示した。1991年は、湾岸戦争勃発の年だ。精密誘導ミサイルなどの新しいテクノロジーが登場し、「軍備」の意味する中身も様変わりしつつあった時代でもある。

冷戦構造が崩壊しクレフェルトが「低強度戦争」と呼んだ正規軍同士の衝突ではない戦争の時代の始まりの時代に『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ著、1988〜1996年)の連載は始まった。これもまた「日本からの独立」を描いた漫画作品である。

日米が極秘裏に開発した原子力潜水艦「シーバット」の乗組員である海上自衛隊出身の主人公たちが反乱を起こし、潜水艦を奪取する。核弾頭を搭載したミサイルを積んだ(と思われている)原潜をひとつの国家として捉える艦長の海江田四郎は、「やまと」の独立を宣言する。

この「やまと国」は、「吉里吉里国」とは対照的な国家である。「吉里吉里国」は豊穣な食物を生み出す領土と、その土地で生まれ育った国民で構成されるが、「やまと国」は、自衛隊の潜水艦の乗組員という形で集まった人々が、領土を持たないまま独立した国家だ。農産物など食料の生産能力はゼロである。あるのは乗組員という名の国民と、原子力発電によるエネルギー、そして核ミサイルという強力な軍備である。通貨も民主選挙もない。

吉里吉里国が、寒くて生きていくのに根気を必要とする東北という場所への強い(ナショナル)アイデンティティから生まれたのと裏腹に、やまとの元首である海江田四郎は、理念をもってこの「やまと」の建国に至っている。彼の理念とは、政治と軍事を切り離し、常設軍を持つ独立した超国家組織をつくるというものである。つまり、国家から軍事力を切り離すという社会実験のために、彼は「やまと」の独立を目指したのだ。その原点には、当時の日本の政治への不信や、日本という国の軍事力に対する理解への低さなどがあったのだろう。その意味においては、本作も閉塞感から生まれた「日本からの独立」という分野に属していると言えるだろう。

■オウム真理教のめざした独立国家

この『沈黙の艦隊』の連載期間と、現実の日本においてオウム真理教が世間に注目されはじめ、地下鉄サリン事件を首謀したことによって壊滅に追い込まれていく時期は、ほぼ重なっている。世界が、正規軍とテロリストが戦う「非対称戦争」の時代になっていった1990年代、日本も国内でもテロリズムとの戦いに巻き込まれていく。

1990年に大勢の信者を衆院選に送り込んで惨敗を喫したカルト宗教団体のオウム真理教は、選挙を経ての政治への参入という手法を諦め、方策の転換を図る。彼らも閉塞した「日本からの独立」という手法を模索し始めたのだ。

オウム真理教は、反近代、反資本主義的な信仰を打ち出しながらも、建国に当たっては、技術主導、資本主義での立国を進める。具体的には、科学力を持って毒ガス兵器の生成を行い、パソコンショップ、ラーメン店、カレー店の経営で資本を集めた。そして、彼らが独立国を開国しようとしたのは、山梨県上九一色村である。自らの組織の在り方も、日本の官僚組織を真似た省庁制として編成したことからも、もうひとつの「日本」を作ろうと考えていたのは明かだ。

疑似独立国「オウム」において国民は、もちろん教団の信者のことだ。彼らは、教団が持っていた科学万能主義への批判精神、オカルト趣味といった宗教観に引きつけられて集まった人々である。だが自分たちが社会から攻撃に去らされているという被害妄想とともに結束を堅くし、自分たちが「独立国」の国民という意識を強くしていく。オウムは、サリンを持って国にテロを仕掛けるが、自分たちの軍備というほどの装備や戦闘力までは持てなかったのは幸いだった。

■中学生たちによるヴァーチャルな独立国

村上龍は、『愛と幻想のファシズム』『希望の国のエキソダス』の二作で「日本からの独立」を小説で描いた。ちなみに、どちらも北海道での独立というモチーフを用いている。

この両作は、閉塞した日本社会の内部から変革しようとする人間が登場し、「日本からの独立」を実験として試みるというものだが、前者のアイデアの発展型として後者の作品が生まれているという関係にある。従って北海道独立をより具体的に描いたのは、後者の方だ。

1998年に連載が始まった『希望の国のエキソダス』は、近未来を舞台に、中学生たちが集団的な登校拒否状態に陥るところから物語が始まる。中学生たちの中から「ナマムギ通信」という会員制ネットを使い、全国の中学生を組織化する勢力が現れる。
 そのグループは、国際的なニュース配信会社を中心とする組織「ASUNARO」を立ち上げ、さらに国際金融市場で資金を手にし、北海道の自治体の財政を握り、移住を始めるのだ。彼らの組織は、会社という組織体の形を取らず、縦の命令系統を持たないネットワークである。2000年前後に書かれた作品にも関わらず、すでにソーシャルネットワークの登場を予言しているところも興味深い。

ASUNAROは、「日本国からの独立」を試みるが、あくまでも「実質的な独立」に過ぎず、敵対しない。ASUNAROは、破綻自治体を事実上買い上げ、そこにネットワーク上の会員たちを移住させる。ファンドを利用して導入した風力エネルギーの基地を立ち上げ、環境や社会貢献が控除される新しい法人税の制度を導入することで、世界の先端企業を集める。電子マネーを使った地域通貨によって、グローバルな金融資本主義と距離を置くという辺りは、2000年頃の左翼系知識人の間でもてはやされたトレンドだった。より現代的なシチュエーションでの「日本国からの独立」を描こうとしたのだ。

■梅棹忠夫の「北海道独立論」と蝦夷共和国

ちなみに、村上龍が北海道独立をモチーフにした背景には、民族学者の梅棹忠夫の「北海道独立論」の存在があるはずだ。梅棹の「北海道独立論」は、北海道が日本において、独立論の舞台になるにふさわしい歴史や思想が流れていることを指摘し、実際にその機運の元で、独立に等しい時代を持っていたことを書いたものだ。そして、北海道独立は、実際に成し遂げられたものでもあった。日本の内側に一瞬だけ存在した独立国は、フィクションではなく実在するのである。

それは、明治元年戊辰戦争のおりのことだ。江戸幕府の海軍副総裁榎本武揚は、勝海舟らが江戸城を明け渡した際に、全海軍を率いて江戸を脱出する。彼らは途中、会津戦争の残留勢力と合流し、北海道函館五稜郭に到達した。榎本はここを占領し、この地に仮政府を樹立する。さらに、彼ら仮政府樹立に辺り、大統領を選出のための選挙まで行っている。榎本は150点を獲得して当選。榎本らと行動を共にした陸軍奉行並の松平太郎が120点で猛追した。この仮政府は、半年を待たずに消滅するが、当時、榎本と会見した英国公使館書記官アダムズが、「republic」という表現を用いて自著で取り上げたことから、これを「蝦夷共和国」と俗称する動きが、のちになって出てきたのだ。

■最新型の独立国、坂口恭平「ゼロセンター」

さて、ここまでは現実、フィクション両方に現れる「日本からの独立」という様々な事例、作品を取り上げてきた。この閉塞感が蔓延する国では、いつの時代でも「独立国」が夢想され、ときには実行に移されてきた。そんな「独立国」の系譜に置かれた最新型の事例に、坂口恭平の「ゼロセンター」計画がある。

2011年3月12日の福島第一原発の爆発事故直後、熊本に逃がれた坂口恭平は、2011年5月15日に「新政府」の設立を宣言し、自ら「新政府初代内閣総理大臣」に就任した。熊本市内坪井町にある築80年の一戸建てを「ゼロセンター」と名付け、建国から一ヶ月で、東日本から避難してきた人々、計100人以上を宿泊として受け入れ、約60名を移住させた。この独立国宣言は、名目はアート活動であり、主催する坂口は、建築家でありアーティストである。

だが、この「ゼロセンター」は、アートと言い切れない危うく、そしてわくわくさせてくれる絶妙なバランスに置かれているのだ。放射能への恐怖、そして日本政府への不信という部分で人が集ってきたという経緯には、一歩間違えるとカルト化しかねない危うさも秘めている。だが、現代の資本主義や消費社会の在り方を否定しきらずに、逆手に取ってみせる坂口の手法は、多くのファンを獲得している。坂口は、路上生活者の生き方をベースとした、0円を基本としたスクワッター(無断占拠者)的なライフスタイルを提唱し、現状の国家とは別レイヤーに新政府を生み出そうとしているのだ。

そして、何より多くの人々をわくわくさせるカリスマ性を、坂口は備えている。ゼロセンターには、「ソーシャルネットワーク時代の独立国物語」という社会実験的側面もあり、「もし、顔のいい麻原彰晃が存在したら」といった見方もできる。現状、この「ゼロセンター」がどのような方向に進むのかが気になる。閉塞した日本の社会の在り方に一石を投じるところまではたどり着いている。その先の姿も、ぜひ見届けてみたい。


*上記は2013年4月に刊行された「踊ってはいけない国で、踊り続けるために ---風営法問題と社会の変え方」(磯部涼・編)に寄稿したものを一部改変しました。ゼロ・センター、いまはどうなってしまったんでしょう?



2014年9 月 1日 (月)

『シャコタン☆ブギ』ジュンちゃんとジョン・ミルナーについて このエントリーをはてなブックマークに追加

この夏は『湾岸ミッドナイト』『シャコタン☆ブギ』を一気読みした。前者はともかく、後者が傑作であるということを再確認できたのは良かった。

『シャコタン☆ブギ』は、四国の地方都市を舞台にしたクルマとナンパに明け暮れる高校生のストーリー。実は『アメリカン・グラフィティ』が元ネタで、それを日本の地方都市のドメスティックな話として丁寧に置き換えている。

アメグラには、ケンカが強く、街最速のホットローダー、ジョン・ミルナーというキャラが出てくる。『シャコタン☆ブギ』でいうとジュンちゃんだ。彼は、ケンカも強いし、後輩思いなので誰からも尊敬される存在だが、街から一歩も出られない地元に止まらざるを得ない存在でもある。職業は、家の家業を継いで自動車整備工。

ジョージ・ルーカスの出世作である『アメリカン・グラフィティ』は、アメリカの黄金時代の終わりを示唆させた作品。舞台は西海岸の田舎町。金曜ごとにクルマで街に繰りだす若者たちが、ずっとナンパしたりしながら街を流している。

ミルナーは、街の片隅にある自動車廃棄場でつぶやく「昔はこの街ももっと喧騒に溢れてたよ」。映画が作られたのは、ゴールデンエイジと呼ばれる60年代が終わった直後。物語の最後で、彼はメキシコからやってきた若き日のハリソン・フォードが演じたホットローダーとのレースで、実質的に敗れてしまう。ルーカスは、アメリカにとっての青春時代の終わりを、このミルナーというキャラクターに象徴的に背負わせたのだ。

一方、『シャコタン☆ブギ』のジュンちゃんが背負ったものとは、90年代以降の地方都市の衰退そのものだ。マンガの掲載が始まったのは、1984年。主人公のハジメは、親にソアラを買ってもらうが、ソアラ登場から3年。その直後に、新型が登場して悔しがる話も登場する。

日本の地方都市も自動車産業も、まだまだ活気があった時代。それが、次第に変化していく様は、マンガの中でもそれとなく描かれていく。街の中心地が、郊外の海岸道路に映って、街中から若者が減ったという回が出てくる。車を改造する走り屋なんて流行らなくなって、それに変わる新たな若者文化が登場してくるという話も何度か登場する。

途中、主人公のハジメとコージは、バブル期で人手不足の折に東京のディスコにバイトに行くくだりがある。その数年後、再び東京に行くと、ディスコの時代は終わっていて、小箱のクラブの時代になっているというくだりがあるなど、時代の変化を捉える著者の視点は鋭い。

ラストまで読んだの、今回が初めてだった。連載終了は、同じ作者の『湾岸ミッドナイト』が、好評で連載化され、作者の興味もそっちに移っていったため、自然消滅的に連載が終了したようだ。ハジメがそれまでたくさんの思い出があるソアラを手放し、セルシオを手に入れることで、物語に終止符が打たれた。ジュンちゃんやサブキャラのアキラらは、走り屋としてそのまま人生を延長させるが、最後までナンパの道具としてしかクルマを見ていなかったハジメ(彼は、クルマはオートマで十分と思っている)は、改造されて最速化されたソアラに執着せずに、躊躇なく卒業していくのだ。

著者の楠みちはるは、この作品を卒業して、いつまでも青春を続ける走り屋たちしか登場しない(つまり、ジュンやアキラの側)『湾岸ミッドナイト』に精力を投入していくことになる。彼もまた、ジュンやアキラの側でマンガを描き続ける道を選んだのだ。

そんな『湾岸ミッドナイト』も作品としてのレベルは高く、名作なのだが、その話はまたの機会に。

関連記事:コリー・ハイムと1980年代の青春映画と『シャコタン☆ブギ』

 

2013年9 月14日 (土)

飛行機の機内上映では絶対見られない! ハイジャック映画の世界へようこそ(前編) このエントリーをはてなブックマークに追加

ハイジャックが描かれる映画のジャンルがハイジャック映画である。

ハイジャック映画に出てくるハイジャック犯は、ハリウッド的な類型的な悪として描かれる。アラブのテロリストに悪魔崇拝者、凶暴な強盗犯にサイコキラー、南米の麻薬組織に精神異常者。ハリウッド映画におけるハイジャッカーたちの描写を振り返るだけで、ハリウッド版「悪の博物館」の一丁できあがりである。

では、さっそくハイジャックムービーの歴史を振り返りつつ、その犯人の描かれ方――つまりハイジャック犯のキャラ、動機、時代の情勢変化など――に触れていきたい。

■現実のハイジャックには3つの種類がある

まずは、現実世界の「ハイジャック史」を軽く振り返っておく。

世界で最初にハイジャックが発生したのは1931年のこと。場所はペルー。その世界初のハイジャック犯の目的は、上空から宣伝ビラをまくこと(!)だったという。なんと牧歌的な。さらに本格的なハイジャック時代の始まりは、第二次世界大戦後ということになる。

ルーマニアから民間機を乗っ取り、トルコを経由して西側社会に亡命しようとした犯人がパイロットを射殺する事件が1947年に発生した。これが政治的亡命を目論んだハイジャック事件の第1号である。しかもこれが飛行機乗っ取りにおける最初の死亡事件でもあった。

さて、ここでまずハイジャックを目的別に分けていみたい。ハイジャックは、大きく3つに分類可能である。

1つ目は、「逃亡目的」だ。歴史上もっともハイジャックが流行したのは、1961年頃のこと。これは、キューバが共産主義国を宣言した直後の時代。ハイジャックが発明されて以降、最も多く利用された人気ルート。それが、アメリカ発キューバ行きというコースであるという。アメリカとの国交がなくなった祖国への帰還を目的としたハイジャックが後を絶たなかった。さらには、アメリカで犯罪を犯した犯罪者が、逃亡目的でキューバを目指すというケースも多いようだ。

2つ目は、「政治目的」のハイジャックである。ハイジャックを有効なテロの手段として見出し、その手法を進化させたのは、マルクス・レーニン主義を信奉する過激左翼集団パレスチナ解放人民戦線(PFLP)だった1967年に勃発した大三次中東戦争で、アラブ連合の航空戦力は、イスラエルの航空兵力の前に2時間50分で壊滅した。この圧倒的な戦力差の下、アラブ諸国は通常戦力としてのイスラエルへの抵抗という手段を失なった。それと同時にテロ組織が生まれてきた。テロリズムとは、世界にその存在をアピールするための手段として生まれてきた。過激左翼集団、つまり「共産主義」は、あくまでも看板だった。この時代、アメリカやイスラエルといっ敵に抵抗する勢力の代表が、共産主義だったに過ぎない。その後は、こうした抵抗は「イスラム過激派」へと看板が変化する。話を戻すと、1968年のローマ発テルアビブ行きエルアル航空機のハイジャックを手始めに、PFLPは飛行機の乗っ取りという形式のテロを重ねるようになる。特に中東に多くの路線を持っていたTWA(当時)は、PFLPにとって「帝国主義の手先」(『戦後ハイジャック全史』稲坂硬一)であり、格好の標的でもあった。

3つ目は、「精神異常者の手によるもの」によるハイジャックだ。実は日本では、これを理由としたハイジャックが大半だという。つまりは、受験勉強に嫌気が差したなどのノイローゼから犯行に至るケースがこれに当たる。比較的最近の記憶に新しいところでは、フライトシミュレーションゲームで磨いた技を使ってみたかったという理由でハイジャックが行われた事件があった。1998年7月の「全日空61便ハイジャック事件」がそれ。犯人は航空機マニアで、実際に操縦桿を奪い、シミュレータで練習したとおりにレインボーブリッジをくぐるつもりだったようだが、実行する前に取り押さえられたこの3つ目のハイジャックのパターンは単独犯がほとんどなので、成功率は極めて低いという。


こうした3つのハイジャックの分類は、ハイジャック映画においてもそのまま使える分類法である。

ちなみにハイジャックは、通常の市民的な犯罪とはまったく違った性質を持った犯罪の分野である。ハイジャックは、ときに国境を越えるための緊急時の交通手段であり、またときに戦争に変わる政治的目的の遂行手段でもあり、また世界になんらかのメッセージを伝えるためのメディアでもある。ライト兄弟は単なる乗り物として飛行機を発明したが、それは同時に、ハイジャックという犯罪の発明でもあったのだ。

■ハイジャック映画とは何か?

ハイジャックムービーとは、基本的には「パニック映画」と「グランドホテル形式」を足したジャンルと考えることができる。パニック映画であるというのは当然である。乗り合わせた乗客と搭乗員と犯人、彼らはうまく対処しなくては全員墜落死するのだ。なんとか、その危機を切り抜けるための冒険活劇要素は必ず含まれる。

舞台は機内だけではない。地上(空港)の人々も登場する。事件を見守る管制塔、警察、空港職員、乗客の家族、そして犯人の協力者などである。機上と地上。ハイジャック映画では、ふたつの場所が舞台となり、複数の人々の群像劇として描かれることが多く、こうした形式は、「グランドホテル形式」と呼ばれるものに近い。

ハリウッドにおけるハイジャックムービーの歴史の始まりは、1972年のジョン・ギラーミン監督、チャールトン・ヘストン主演の『ハイ・ジャック』(原題:Skyjacked)と考えられている。この時代背景、監督の人選を思うと、ハイジャック映画は、パニック映画の一分野として誕生していると考えることができるだろう。


Airport
まずは、こちらを取り上げよう。空港を舞台としたパニック映画が『大空港』(1970年)である。舞台は大雪のシカゴのリンカーン国際空港。バート・ランカスターが空港長、ディーン・マーティンが機長、その愛人がスチュワーデスの制服が似合うジャクリーン・ビセット。着陸した便が雪でコントロールを誤り、滑走路をふさぐ事故が発生。そんな大忙しの最中、夫がダイナマイトを抱えて飛行機に乗ったと訴える夫人が現れる。どうやら仕事で失敗し、保険金目当てで飛行機に乗り込み、事故を起こそうとしているらしい。

これは、いわゆるグランドホテル形式の大作。この作品自体は、ハイジャック映画そのものとはいえない。むしろ、この後シリーズ化される『エアポート』を生むパニック映画という分野のはしりとなった一作である。

ハイジャック映画の誕生は、この大作の翌年の1971年。題名はそのものずばり『ハイジャック』なのだが、本作はミステリ仕立てである。ハイジャック犯が当初正体を明かさない。トイレの鏡に要求が書き込まれるところから始まるのだ。だが実は僕はこの作品を観ていない。なぜならDVD化もされておらず、ギラーミンのWikipediaの項目にも記述がない程度の作品なのだ。それでもデータベースサイトなどにあるあらすじを追うと、ハイジャック犯は、最終的にソ連への亡命を希望し、ラストではソ連兵に射殺されてしまう。とはいえ、東西冷戦といった政治的な状況を描いたわけではなく、ハイジャックの3つの動機で分類するなら「精神異常者の手によるもの」に類するようだ。これ以上は、観てみないとなんともいえない。

 

■とにかく標的はイスラエル

1970年代は、政治的なハイジャック事件の時代である。日本赤軍のメンバーが日航機を奪取し北朝鮮に渡ったよど号事件は、日本初のハイジャック事件である。犯人のリーダー田宮高麿による「我々は“明日のジョー”である」という、有名漫画の題名を誤って記した声明が有名である。彼らは、世界同時革命を目指す共産主義の信奉者で、アジアにおける一斉蜂起をめざして日本を飛び立つ手段として航空機を選択した。

1973~74年は、国際的にテロの脅威が高まり、中でもハイジャックの件数が月間20~30件を記録していたという、ハイジャック繁忙期だった。そんな時代を背景に作られたのがショーン・コネリー主演の『オスロ国際空港/ダブル・ハイジャック』(1974年)というイギリス映画である。本作は、ノルウェイの英国大使館が占拠され、同時に航空機もハイジャックされるという政治テロを描いている。

ハイジャッカーたちは国際的な左翼過激派集団である。これは当時の社会背景をなぞっているがどんでん返しが待っている。実は彼らは政治的なテロを装っているが……まさに『ダイハード』シリーズの原点である。意外な人物が犯人であるというミステリーでもある。

本作には犯人が刑務所にいる仲間の釈放を要求し、ノルウェイ政府がそれに答える場面がある。現実の「エールフランス139便ハイジャック事件」が起こるのは、この映画の2年後のことだ。アテネ発パリ行きのエアバスA300をハイジャックしたのは、「パレスチナ解放人民戦線・外部司令部」と西ドイツの「革命細胞」という極左組織だった。彼らは、この機をウガンダのエンテベ国際空港に強制着陸させ、ユダヤ系乗客を人質として残してイスラエルに服役している40名同胞の釈放を要求した。

この事件は、特殊部隊による人質奪還事件の成功例として知られる。徹底抗戦の姿勢を貫くイスラエル軍の人質解放作戦によって、犯人6人全員が射殺されたのだ。この事件は格好のアクション映画の題材となった。この事件 を元にした『エンテベの勝利』(1976年米)『特攻サンダーボルト作戦 』(1977年米)『サンダーボルト救出作戦』(1977年イスラエル)という3本の映画が作られている。

このハイジャック事件が、アクション映画の格好の題材であったのは間違いないがそれだけではない。イスラエル政府が、政治的な意図を持ってこうした映画をスポンサードしたのだ。そのことを指摘しているのは、パレスチナ出身の批評家サイードである。彼は「イスラエルが世界に対してうまく証明しようとしてきたのは、イスラエルこそがパレスチナ人の暴力とテロによる無実の犠牲者であって、アラブ人とムスリムはただユダヤ人に対する不合理な憎しみのためだけにイスラエルと衝突している」と指摘している。

簡単に言うと、イスラエルはハイジャックというテロリズムに手を焼いていた。そして、潤沢な資金でもってハイジャックが敗れる映画をスポンサードした。これはつまり敵対勢力であるアラブを悪者にするためのプロパガンダである。ハイジャックが敗れる映画にはこうした意味合いも含んでいるのだ。

80年代を代表するアクションスターの一人、チャック・ノリスの代表策である『デルタ・フォース』も、実在のハイジャック事件を元ネタとしていた。1985年に起きたイスラム聖戦機構がTWA機をハイジャックし、同志700名の釈放をイスラエル政府に突きつけたという事件である。

 

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カイロ発アテネ-ローマ経由ニューヨーク行きの航空機が、アラブ人テロリストにハイジャックされる。犯人たちの要求で機はベイルートに着陸。一方、事件を知った米政府は、人質救出任務を行う対テロ部隊デルタフォースを招集。すでに部隊を去っていたベテラン隊員のチャック・ノリスもこれに同行する。

飛行機の中でテロリストたちは、ユダヤ人と観られる乗客の選別を行い、米海兵隊員をリンチする。名前だけでなく、かつてのナチスに彫られた識別番号でユダヤ人であることが示される場面なども描かれている。映画の後半は、テロリストたちを、チャック・ノリスたちに完膚無きまでにやっつけるという勧善懲悪アクションだ。ミリタリー好きの少年時代を過ごした僕らはこの映画で特殊部隊が使用するウージー社のmini Uziを知った。映画の世界ではおなじみの兵器である。これは、狭い場所での使用を前提に設計された取り回しがきくイスラエル製のサブマシンガンである。Uziはおもちゃのエアガンもたくさんつくられた人気のある銃だった。

このB級アクションも映画がイスラエル軍の全面協力の下でつくられている。監督もイスラエル人である。80年代は、たくさんの戦争アクション映画が作られた時代である。僕自身もそんなミリタリー要素の強い映画のファンだった。中でも、特殊部隊がテロリストたちと戦うB級アクション映画はたくさん作られていた。当時の日本劇場未公開作で、ハイジャックをモチーフにしたものも少なくなかったようだ。それらのB級戦争アクションが生まれる背景に、プロパガンダ的な側面があるなど、もちろん当時は考えもしなかったことだ。

■内なるテロとの空の大決戦

90年代になると、過激派によるテロやハイジャックの標的はイスラエルという常識に変化が現れる。イラン・イラク戦争、東欧革命、ソ連解体、そして湾岸戦争を経た世界の政治状況は、より複雑なものとなっていた。より新しいテロリズムの時代が到来する。国民国家同士が国境越しに向かい合うような戦争の在り方がリアリティーを失っていった時代に、アメリカは、世界中、または国内に遍在するテロリスト立ちと向かわざるを得なくなる。ハイジャックの恐怖は、まさに内なるテロそのものだ。

その新しい時代の「恐怖」をうまく作品に活かしたのが、『エアフォースワン』である。本作は、物語の大半が飛行機の中という純粋な密室ハイジャック映画だが、ハイジャックされるのは豪華で最新技術の結晶である大統領専用機、そしてハイジャッカーに単身立ち向かうのは、ハリソン・フォードが演じるアメリカ大統領である。

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最高度のセキュリティを誇るはずの大統領専用機に、敵のテロリストを招き入れる内通者が潜んでいる。この設定は、テロの胞子を内側に抱く時代のハイジャックの在り方を象徴する。
 この映画で描かれる敵は、アラブではない。敵はロシア人の国粋主義者で旧ソ連体制を復活させようと考える共産主義者だ。ハイジャック犯は、ロシア軍・米軍の共同作戦によって排除されたカザフスタンの政治的指導者ラデクの釈放を要求する。

テロリストのリーダー(ゲイリー・オールドマン)は、「ソ連崩壊後のアメリカ式の自由経済主義がロシアを強盗と売春婦ばかりにした」と、アメリカ大統領を演じるハリソン・フォードをつるし上げる。この作品の制作は1997年。ロシアの急速な経済成長は、この映画の直後くらいからなので、この時点でロシアは負け組の感が強かったのだ。

釈放されるラデクは、カザフスタンの一般市民10万人を殺戮したソビエト出身の国家社会主義者。彼の釈放を祝福する刑務所内の共産主義者たちが、労働者たちの海を越えた団結を歌った共産主義革命のテーマ曲である「インターナショナル」を大合唱する場面がある。この『インターナショナル』をBGMに、飛行機内でハリソン・フォードとゲイリー・オールドマンが殴り合い、撃ち合いを演じる場面と合唱の場面がカットバックで映される。このシークエンスはこの映画の中でも最高の場面である。もちろん、最終的にはハリソンが勝利を収めて家族を守る。いつものとおりアメリカの平和は守られる。ちょっと共産主義がこけにされ過ぎた感がある。

さて、本作にはハリソン演じる大統領の演説シーンがある。彼は、カザフスタンの市民10万人が殺戮されたことを悼み、アメリカの軍事介入が遅れたことを謝罪する。そして、今後アメリカは自国の利益のためではなく、正義のために軍隊を動かすと宣言するのだ。このハリソン・フォードの宣言に対して大統領の側近は、世界はこのスピーチを賞賛するだろうが、自国民からは反発されるだろうとつぶやく。この辺は、昔の映画という感覚になる。

イラク戦争後、大量破壊兵器を巡る事実誤認が示され、アメリカの正義なき介入が批判されているいまとなっては完全に逆である。ビン・ラディンのパキスタンでの暗殺でもそういう気運があったが、世界はアメリカが「世界の警察」であることに疑問を持つようになっているし、アメリカ国内でもそれへの倦厭の空気が強まっている。

この映画の後、現実のアメリカ大統領が、映画と同じように世界にとっての悪(テロ)との独善的な徹底抗戦を宣言した。それは、映画の4年後、9・11直後のこと。もちろん、ジョージ・W・子ブッシュ前大統領である。9・11の同時多発テロでよく耳にした常套句に、「現実がハリウッドを模倣した」というものがあった。この演説こそがまさにそうだったのではないか。

ハイジャック映画の話は、またこのあとの後編に続く。ちなみに、この原稿の初出は映画同人誌『Bootleg』の「Noir」特集号に掲載されたものです。

 

 

2012年3 月12日 (月)

戦争映画として見る『戦火の馬』感想 このエントリーをはてなブックマークに追加

人間と馬のドラマという目線では、あまりよくできた話とは思えなかったので、あくまで戦争と馬という視点から映画の感想を。

第一次世界大戦は、馬が前線に担ぎ出された最後の戦争なのかもしれない。舞台を第一次世界大戦に設定したことが、 この映画の重要なポイント。こうした目線で戦争映画としてみれば、とても見所の多い映画かと。

見所という意味では、映画の最初の30分は寝てても問題ない。馬が来て少年が育てて戦争にとられていく。頭の固い父親が、意地悪な地主に意地を張って高い馬を買ってきて、金がなくなり売り払うだけの話。少年と馬が引き離されるのは戦争のせいではないのだ。なので少年にはほとんど感情移入できない。

やっと本編が始まったなというのは、最初の戦闘シーン。つまり英軍の騎兵隊とドイツ軍が接触する場面。サーベルを持った英国の騎兵隊が、ドイツ軍の宿営地を奇襲する。だが、このデビュー戦はあっという間に決着が付く。ドイツ軍の機関銃によって騎兵隊は壊滅的な被害を受ける。敗れた英国の将校に、ドイツ兵が嫌みをいう「俺たちが何の防備もなく野営していたと思ったのか?」と。まったくだ。

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)』という本を読むと、この場面の背景が理解できる。イギリスは第一次大戦でドイツの機関銃の前に、多大な死者を出す。イギリス軍も機関銃は持っていた。だが、それが有効に利用されることはなかった。なぜなら、イギリスは、戦争において勝敗を決するのは、騎兵たちの勇敢さ、突撃精神だという考えを、多くの死者を出しても捨てなかったから。

当時のイギリスの将校たちは、みな貴族の出身だった。彼らは誇り高き戦争のプロだが、新しい戦争の時代になっていることに気付かなかった。さらに、工業化時代を担う新しい階級のことなど見下している人々でもあった。つまり、新しい技術が戦局を変える、技術で勝敗が決まるなんてことは、信じられなかったのだ。

そんな具合に第一次世界大戦の史実が忠実な感じで再現されるこの作品、とはいえ最初の戦いで主人公の馬に乗った英国軍人(少年に馬を返す約束をしたのに)はあっさり死ぬ。もちろん、主人公の馬は生き残るが、ドイツ軍で大砲を引っ張る労役に使われる。工業化時代の近代化した戦争を戦うドイツ軍は、馬を前線での突撃用には使わないというわけだ。

ところで、この映画で一番泣けるのは馬同士の交流のシーンである。軍隊でずっと一緒だった親友の黒い馬が、ここの労役で弱っていく。仕事を肩代わりする主人公の馬の優しさに心を揺さぶられる。だが結局、黒い馬は死ぬ。彼ら2頭の面倒を見る馬好きのドイツ兵は、上官の命令を無視してこっそりと隊列を離れ、2頭に別れの時を与える。馬と馬の交流、人と馬との交流が描かれる唯一の場面だ。正直泣ける。この映画の登場人物のなかで、馬を本気で愛しているのは、このドイツ人だけではないかだろうか。

映画としての見所はこの直後からのシーンだ。ドイツ軍から逃げ出した馬が前線を駆け回る。これまでは、優秀だが恐がりで柵などを跳び越えることのできなかったやさしい性格に描かれてきた馬が、ドイツの戦車と遭遇して覚醒するのだ。馬と戦車が一対一で向き合う場面が、本作の一番のシーンである。 鉄の塊を見て脅えた馬は、逃げようとするが周囲は障害物で囲まれている。勇気を振り絞った馬は、これに飛び乗る。前近代の兵器である馬が最後の抗いとして戦車に対抗するのだ。

工業化された戦争の主役である戦車と、前近代戦争の象徴である馬をワンカットに納め、対峙させる。このシーンにこの映画の全体的な構図が濃縮されて描き出されている。

覚醒した馬は、 前線を駆け回る。しかし、鉄条網が体中に巻き付いてしまい、弱って倒れ込む。ここで英国軍とドイツ軍の兵隊同士が馬を助けるために、一時協力するという映画のアクセントになる場面がある。

さて、馬が駆け巡る場所がだだっぴろい戦場ではなく、狭い塹壕のなかであるというのも、ミリオタであるスピルバーグらしい場面作りである。機関銃が用いられた第一次世界大戦は、塹壕での撃ち合いが戦闘の中心となる。馬は、この塹壕戦ではまったくの役立たずである。そこを馬が走りまわるというわけだ。騎兵が馬上で使い安いように短くなったカービン銃の時代から、塹壕に飛び込んで乱射できる短機関銃、そしてアサルトライフルへと、歩兵の銃の役割も変化していく。

最後に、馬と冒頭の主人公が前線で出会ったり、戦争が終わって一緒に故郷に帰ったりという場面は、あまり記憶に残っていないので、どうということはなかった気がする。 逆に、スピルバーグがこの作品で幾度となく描くメッセージとは、馬が戦争の役に立たなくなったという戦争の技術の変遷である。本作は、工業化した戦争を時代遅れの兵器である馬の目線で描いた作品のように思える。

これは少年に感情移入できなかった僕のうがった見方なのだが、あの馬の愛情を持ったドイツ兵のところに馬が帰るのが最もハッピーなエンディングだったと思う。

 

2011年8 月11日 (木)

大人になって見直してみた『マイアミ・バイス』前編 このエントリーをはてなブックマークに追加

中学生時代に最も好きだった80年代の刑事ドラマ『マイアミ・バイス』がDVDボックス化したので手に入れ、ここ数年かけて観てるんだけど、現代の目線で見直してみると、改めて見えてくる部分も多い。90年代以降のアメリカを予言していた部分なんかもある。昨年『bootleg』の黒人特集に書いた記事を一部書き加えてアップする。

■コンセプトは「MTV COPS」

『マイアミ・バイス』は白人のソニー、黒人のリコのコンビが主人公。いわゆるバディ(コンビ)ものの刑事ドラマである。フィリップ・マイケル・トーマスが演じる、黒人刑事リカルド(リコ)・タブスは、元々ニューヨークの強盗課の刑事。このドラマのパイロット版は、そのニューヨークから始まる。リコは、路上に止めた車のなかで麻薬組織のボス、カルデロンを見張っている。すると、通りがかりの黒人のチンピラたちに絡まれる。彼らに向けて吐いたタブスの最初の台詞は「ビート・イット! パンクス!」(「失せろ」と字幕)である。チンピラたちは「マイケル・ジャクソンかよ」、とあざ笑う。ドラマのスタートは1984年。前々年末に発売されたマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』はまだ大ヒット中だった。このドラマの元々のコンセプトは『MTV COPS』だった。かっこいいロックミュージックが流れる中で、カーチェイスや銃撃戦が行われる都会派の刑事ドラマ。このコンセプトが半分以上生きたまま、ドラマはスタートしたのだ。

さて、刑事だった兄を殺されたリコは、復讐のためにカルデロンを追いかけてマイアミにやってくる。そして、ソニーたちマイアミの刑事たちと合流し、カルデロンの本拠地に迫る。刑事ではなかったリコは、この地で刑事として新しい仲間たちと一緒に働くことになる。

■『夜の大捜査線』の時代から『コスビー・ショー』の時代へ

北部の黒人刑事が南部にやってくるというモチーフの映画に『夜の大捜査線』がある。大都会シカゴからやって来た理知的で都会的な黒人刑事をシドニー・ポワチエが演じ、覆面をかぶった黒人差別者集団のKKK団が暗躍するミシシッピ州の田舎町で警察署の署長をロッド・スタイガーが演じる。両者が協力して捜査に当たっているうちに、偏見が解けちょっとした信頼関係が芽生えていく。この映画の構図は『マイアミ・バイス』のパイロット版のモチーフの一部になっている。

ただし、黒人の公民権運動の最盛期の1967年に作られた『夜の大捜査線』と、その17年後に作られた『マイアミ・バイス』では、黒人のポジションというものがまったく変わっている。『マイアミ・バイス』が始まった80年代中頃は、黒人イメージの急速な変化が訪れていた頃で、それは当時のポップスターやテレビドラマにも色濃く反映されていた。

マイケル・ジャクソンがナンバーワンのスターになったのもその変化のひとつだが、それ以上に大きかったのは、『コスビー・ショー』(1984~1992年)の存在である。『コスピー・ショー』は、毎回50パーセント台の視聴率を稼いでいたホームドラマで、80年代版の『パパは何でも知っている』とでもいうべき、アッパーミドルの家庭生活を描いたシチュエーションコメディドラマだ。父は医者、母は弁護士。5人の子供。ただし、この主役家族は黒人である。

このドラマの登場家族が黒人でなくてはならない理由は特にない。白人のアッパーミドルで十分成立する。むしろ、このドラマが放映された当時は、現実の黒人が置かれた状況、つまり貧困にあえぐ人たちをないがしろにしているのではないかという批判が起きたという。アメリカ文化に詳しい奥出直人氏は著書『アメリカン・ポップ・エステティクス』の中で「アメリカで黒人であることが、人種差別によって傷ついた病的な存在であるわけではないことを、コスビー・ショウのなかの新しい黒人イメージは穏やかに伝えようとする」と触れている。このドラマには、黒人の中産階級(富裕層)がアメリカ社会にふつうに台頭しつつある現実を反映するという意図があったのだ。

同じように、ソニーとリコの2人の刑事が人種の壁を乗り越えるというような『夜の大捜査線』で見られるような描写は、『マイアミ・バイス』には一切存在しない。むしろ、『マイアミ・バイス』というドラマをひとことで乱暴に現すなら、白人と黒人が組んでヒスパニックをやっつけるドラマということになるだろう。だが、そう言い切るためには、このドラマの舞台であるマイアミという都市の地政学的な位置、そしてこの街の特殊な人種構成についての説明が必要だろう。

■アールデコの都市とベルサーチ

ひとくちにマイアミといっても、マイアミ市とマイアミ沖合に浮かぶ細長い砂地の島のマイアミ・ビーチ市の両方を指して呼ぶ場合が多い。このマイアミ・ビーチ市は、『マイアミ・バイス』のオープニングの映像でも映されているが、人工的につくり出されたリゾート都市という極めて興味深い存在である。しかも、リゾート地としては、ハワイやラスベガスなどよりも半世紀以上も早くから存在している。

マイアミのリゾート開発が始まったのは19世紀末。東部からマイアミまで鉄道が敷かれ、ビスケイン湾に浮かぶ小さな島は、ココナッツ、アボカド、マンゴーなど砂地を利用した農園としての開発が進んでいた。だが、20世紀初頭からはリゾート地としての開発に切り替わる。マイアミと小さな島の間に橋を架ける「マイアミビーチ改良会社」が作られ、さらに、自動車のヘッドライトを発明し製造販売で成功したカール・フィッシャーがマイアミにやってきて、マングローブ・ジャングルだったこの島を埋め立てたり、島同士を橋で結ぶなどの開発を行なったのだ。この土地は、リゾート地として販売され、数多くのリゾートホテルを誘致した。かつて無人島だったこの島は、1915年にマイアミ・ビーチ市に昇格したのだ。

ドン・ジョンソン演じるソニー・クロケット刑事のファッションは、この町並みのカラーリングに合わせてパステル調に決まった。1930年代にリゾート地として有名になったマイアミに建築ブームが訪れたときに、マイアミの町並みはパステル調に塗られたのだ。当時は、世界恐慌語の不況時。打ちひしがれた国民の気分を高揚し、回復を図るためのカラーリングだったという。いまでもこのアール・デコの建物の多い地区は、観光資源として手厚く保護されている。

ちなみに、このソニー刑事の衣装は、ジャンニ・ベルサーチが担当した。「女性を性的玩具として」表現するという意図の下、高級売春婦の着るようなドレスをデザインしてフェミニストたちに非難されたベルサーチは、まさにこのドラマにうってつけの存在だった。

ゲイで社交好きなヴェルサーチは、マイアミビーチに自宅を持ち、有名人やモデルたちを集めてのパーティに明け暮れていた。この家を購入したのは、『マイアミ・バイス』の仕事がきっかけだった。常にマフィアとのつながりが噂され、常にボディガードを連れ、防弾ガラスが貼られた高級車に乗っていた。まさに『マイアミバイス』の登場人物のような生活である。そして、1997年に美貌のゲイの連続殺人犯に、マイアミの自宅前で射殺された。

■リゾート地としてのマイアミの変化

話をマイアミの街の話に戻す。古くからリゾート地だったマイアミの最初の大きな変化は、1950年代末に訪れる。1959年に、マイアミの目と鼻の先にあるキューバで革命が起こる。すると、この地にキューバからの亡命者が流れ込んできた。そこには、カストロの共産主義体制に反対する富裕層、ゲイの作家やスポーツ選手、ミュージシャンなどが多く含まれていたという。

リゾート地としてのマイアミは、この頃から一旦価値を失い始めていった。1959年にハワイが50番目の州に昇格すると、一大ハワイブームがアメリカを襲い、リゾート=南国の島ハワイというイメージが定着。70年代にはカジノとして大発展を遂げたラスベガスに人気が集まった。こうした中で、マイアミは、中南米からの移民の流入、麻薬取引の増加などによって、アメリカでも有数の犯罪都市へと変貌していった。

そんなマイアミに再び転機が訪れるのは1980年のこと。キューバのマリエル港の解放という出来事によってもたらされた。カストロはこの年の4月から半年間に渡ってマリエル湾を解放する。この期間に限り、自国からからアメリカへの亡命を黙認したのだ。この際、カストロは、刑務所から犯罪者たちを解放したという。それ以外にも、このマリエル港解放には、精神病患者や同性愛者たちを、国外に追いやるという意図があったとも言われている。

アル・パチーノが主演した映画『スカー・フェイス』(1983年ン)は、1930年代のギャング映画『暗黒街の顔役』のリメイクだが、主役のアル・パチーノ演じるトニー・モンタナはイタリア系マフィアではなく、キューバ人に脚色されていた。この主人公は、まさにこのマリエル港解放の折にアメリカにやってきた移民で、アメリカで麻薬王として成り上がっていくという話である。

移民問題、貧困問題、犯罪問題。こうした90年代のアメリカの問題において、中心的な存在となるのは、黒人ではなくヒスパニックである。アメリカの中南米に接する南の玄関口であるマイアミは、他の北米の都市に比べると、極端に南米からの移民=ヒスパニックの人口構成比が高かった。アメリカのマイノリティーの最大派閥が黒人からヒスパニックに変わったのは、米全体で見れば2000年前後のことだが、フロリダでは、すでに80年代からヒスパニックが黒人よりも多数派になっていたのだ。

80年代のマイアミは、その後のアメリカの人種問題の変化を、先取りしていたのである。この街では黒人はもはや敵ではなく、ヒスパニックの台頭に対抗して共闘する相手になったのだ。これは、パナマ侵攻や湾岸戦争といった戦争において、ジョージ・ブッシュ(父)がともに戦うパートナーとして、黒人であるコリン・パウエルを統合参謀本部議長に据えたのと同じ構図とも言えるかもしれない。『マイアミ・バイス』のソニーとリコのコンビは、その後のアメリカの政治状況を的確に先取りしていたのだ。(後編に続くよ)

 

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2010年7 月14日 (水)

映画『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』感想 このエントリーをはてなブックマークに追加

あまり評判がよくないので、出来がイマイチなの覚悟で観に行ったら、まったく余計な心配だった。

『踊る~』シリーズでは、本当の敵は犯人ではなく、警察組織そのものであるということを、いく度も形を変えて語ってきた。特に劇場版シリーズにおける犯人とは、警察組織が対峙できない相手として設定されてきた。

1作目では、縦割りのマニュアル捜査では対処できない相手として犯人が設定された。常識的な動機を持たない子どもが犯人で、足を使って捜査する現場の刑事が解決の道を見つけるのだ。

2作目では、リーダーを持たない組織としての犯人グループが設定。つまり、命令系統はなく、目的だけを共有し、連携しない犯罪集団である。攻殻機動隊におけるスタンドアローンコンプレックス現象と言い換えてもいい。ピラミッド型組織で意思決定から行動までのスピードに欠ける警察は、このグループに対処できない。

こうした犯人に翻弄され、本当の敵は自分たちの組織そのものでしたというのが、このドラマシリーズ自体のテーマである。

さて、今回の犯人はさらにパワーアップした。
今回も、いつもどおり本庁と所轄の間で争いが始まる。すると、その両者の間にをピタリと収める補佐官の小栗旬が登場する。彼は、個々の立場の人間それぞれにインセンティブを与えることで、場を調整するスペシャリストである。これまでシリーズが取り上げてきた最大のテーマをいとも簡単に解決する最強の敵の登場だ。

そして、今回の犯人は、この小栗旬の鏡像として描かれている。

ここからはネタバレになる。

今作の主犯は、一作目に脇役的に登場した小泉今日子演じる犯罪心理学に通じる快楽殺人の日向真奈美である。ただし、彼女が犯人だとわかるのは終盤のこと。彼女は実行犯ではなく、拘置所から実行犯を動かしている。小泉のこの役は、言うまでもないが『羊たちの沈黙』のシリーズでおなじみのハンニバル・レクターのアレンジである。

踊る3とは、レクター博士が、インターネットの発達した現代に現れたらどうなるかという、興味深い思考実験でもある。

一作目でも、彼女はホームページを持ち、ネットで支持されている猟奇殺人マニアとして登場した。このドラマが、当初は並の視聴率だったにもかかわらず、主に放送終了後にネットで支持されるようになり、人気ドラマへと成長した。そんな社会とドラマを結ぶ関係性の変化を、うまく劇場版の題材として取り上げていた。今作は、ネットのソーシャルメディア的側面を描く。ちょっと思ったのは、物語にもツイッターを使うべきだったということ。

今回の物語は、何も盗まれない窃盗事件と誰も被害に遭ってないバスジャック事件の発生から始まる。これらは犯人の陽動作戦である。翌日、拳銃と銃殺死体が放置された船が発見される。使われた拳銃は、湾岸署の引越と、両陽動事件の最中に盗まれた三丁の拳銃のうちの一丁だった。第二の殺人も、同じように発見される。しかし、これらもまた陽動作戦でしかなかった。

Tirant 新しい湾岸署は、対テロリストと称し、鉄壁のガードシステムに守られている。しかし、その過剰な設備と、警察の過剰防備の心理の逆を突いた犯人は、セキュリティシステムを誤稼働させ、捜査員と引越業者を署内に閉じ込めることに成功。その署内に時限装置付きの毒ガス噴射システムを仕掛け、これまで青島が逮捕してきた犯人全員の釈放を要求するのだ。ウルトラ兄弟たちにやられた怪獣の怨念で生まれたタイラントみたいな話である。

この釈放要求の件は、日本赤軍のクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件の“超法規的処置”を元ネタとして、それらを連想させるように作られている。犯人が、中東への逃亡を考えているのも、重信房子を彷彿させる。

主犯の日向真奈美は拘置所の中にいながら、これらを企てている。拘置所に出入りするソーシャルワーカーの臨床心理士を手なずけて、彼を通してネットで共犯者を募り、自分の釈放を画策したのだ。また、彼を通してネット世論を動かし、自分の崇拝者をネット中に生み出した。彼女は、拘置所に入りながらカリスマになっている。そして、最終的に自殺を遂げることで、その影響力をさらに高めようと画策する。それがこの事件の真の目的である。

彼女の手法を青島ら警察側は単なるマインドコントロールと分析し、教唆犯であると解釈するが、それは違う。彼女は、“私は彼らに生きがいを与えただけ(台詞うろ覚え)”なのだという。彼女の取った手法は、小栗旬演じる補佐官とたいして変わらない。

小栗旬の補佐官はこの事件を政治の道具に使おうとする上層部を「調整」する。この事件を人質事件のテストケースとして国民感情の実験に使いたい政府与党、よど号ハイジャック事件のときの超法規的処置ではなく、法規的にこれを処理したいと考えるどこかの官庁、正義漢の室井は教科書的な言動しか取れないが、小栗は彼らの利害関係を把握し、それぞれにメリットと責任回避の言い訳を与える解決法を提示する。組織の構成員にも、それぞれの立場と利益があるというのを理解し、ひとつひとつ穴を埋めていく。それが調整である。

一方、小泉今日子、社会で鬱屈しているネットゲーマーたちに現実を楽しむためのゲーム的なインセンティブを与えて、自発的に犯罪行動を促し、結果として自分の脱獄を成功させるのだ。それぞれの立場や欲望の在り方を理解し、それを調整するのだ。彼らをしあわせにすることができない現実の社会よりも、彼らにやりがいを見つけてあげられる自分の方が正しい。例えその結果が犯罪者への道であろうが、それを自ら選択したのは彼らなのだ。自分に罪があるわけではない。

彼女の主張を代弁するならそういうことだろう。「やりがいの搾取」って何が悪いの? という議論がここからも展開できそうだ。また、この小泉の犯人像からは、犯罪への道筋を設計していく京極夏彦『絡新婦の理』の犯人を連想させる。あと、リバタリアン・パターナリズムみたいなものとも接続できそうだ。

さて、青島がこの似たもの同士として配置された2人に、真っ向立ち向かって勝利をおさめるわけではない。もちろん、事件を解決するのは主人公の青島である。だが、前作で悪役だった管理官の真矢みきが最後に敗北を認めたようなカタルシスはない。小栗旬が目を怪我する必然性はまったくわからなかったが、彼らは生き残るし、敗北しなかった。むしろ、勝者に映る。今作の評判が良くないのは、この辺にあるのだろう。青島は挫折したのだ。

とにかくひたすら正しいことをやってボトムアップ式に組織を変えようという青島の手法は、すでに事件を解決させたり、旧態然とした組織をよくするためには機能しないことが判明した。また、室井も挫折した。現場に理解を示し、組織を上からトップダウン式に変えていこうという室井の信念もまた、機能しないことがわかってしまった。

90年代末にテレビドラマシリーズとしてスタートしたこのシリーズは、年功序列、縦割りといった、日本的サラリーマン組織の弊害をいかに変えるべきかということを、青島刑事というキャラクターを通して描いてきた。今作が最後とは明示されたわけではないのだが、そのテーマには一端の終止符が打たれたことになるのかもしれない。

ラストの青島のコートの扱いが思わせぶりである。彼がコート<刑事の魂みたいなものを象徴している>を失ってしまったと解釈すべきが、犯人にかぶせて中和しているという解釈なのか。

いままでは、おとぎ話として作ってこざるを得なかったが、本作はちょっとリアルに組織の限界を描いた。やっぱり、シリーズのファンは、それでも青島の正義漢やまっすぐなところを肯定するような描き方を期待したのだろう。その気持ちはよくわかる。

本シリーズは、中心テーマ以外にもみどころは多かった。お台場の発展(本シリーズはフジテレビのお台場移転記念で製作された)、監視社会化、9.11以後の世界、そして『24』以後の刑事ドラマ表現、さまざまなテーマが加わりながらシリーズは続いてきた。

考えてみれば、97年の劇場版一作目では、キョンキョンのノートPCにはインフォシークのシールが貼ってあった。13年経って、インフォシークなんてもう誰も知らない。パソコンは得意でなかったはずの青島も(とはいえ、元コンピュータ系商社の営業か)、「ドメイン名を変えてみれば」などと、ちょっとネットに詳しくなっていた。シリーズを通して、多少荒唐無稽とはいえ、ネットとサイバー犯罪、コンピュータ時代の犯罪捜査についての変化も描かれてきた。あまりに国民的ヒットシリーズになったため、ある種の人たちには敬遠される本シリーズだけど、こうした90年代半ば以降の日本を眺める材料としても、十分おもしろい。というか、僕は今作含め、全部好きだ。

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2010年6 月18日 (金)

ポン・ジュノ作品と日本の任侠映画で比較する日韓の都市化・近代化 このエントリーをはてなブックマークに追加

団地愛好家の大山顕は、ソウルの街を「団地天国」と称している。そして、「ソウルに住むということは団地に住むこととほぼ同義」なのだという。東京のニュータウンの開発は都心ではなく、郊外に向かって進行したが、ソウルでは都心部、それも高齢者の多い地域を率先してニュータウン化を進めるなど、大胆な都市計画が進められた。東京の主たる光景とは、いまだ低層の一軒家が視界の限りに立ち並ぶ杉並区的な町並みが大半だが、ソウルは都市全体に渡って高層住宅が林立する。それは、都心を流れる川・漢江を中心に都市の光景が映し出される『グエムル』の背景を見ていてもよくわかる。

ソウル市民の数は、韓国の全人口の二割を超える1000万人強。さらに首都近郊まで含めると、韓国人の半数近くが首都圏に住んでいるという。韓国は、極端な都市集中社会であり、それが進行したのは1960年代以降と、わりと最近のことである。

■団地で犬を飼う人々と犬を喰う者たち

ポン・ジュノの長編デビュー作『ほえる犬は噛まない』は、物語のほぼすべてが団地の建物内で進行する団地映画である。ジュノは、団地をひとつの世界に見立てることで、キッチュなコメディ映画としてこの作品を成立させている。

団地の住人たちはみな豊かな生活を送り、愛玩用の犬を飼っている。団地の規則でペットを飼うことは禁止されているのだが、誰もそんな規則を守っていない。そして、その一方で団地の中には彼らとは別のレイヤーで生活している人たちがいる。地下室に住むホームレスと管理人のおじさんである。彼らにとっては犬は文字通りの“食い物”でしかない。住人の犬をさらっては、こっそり鍋にして食べているのだ。

主人公のユンジュは、この団地に住む非常勤の大学講師。日本同様、非常勤講師は貧しい生活を送っている。教授になるためには、偉い教授に袖の下を渡さなくてはならないが、貧しい彼にはその金がない。生活費を稼いでいるのは、妊娠中の妻である。そんなユンジュは犬の鳴き声、そして団地のルールを破り犬を飼うものたちに神経を尖らせている。物語の前半においては、彼は犬を捕まえ、あわよくば殺してしまおうという立場を取る。ユンジュは、どちらかと言えば犬が“食い物”に見えるホームレスや管理人側に属しているのだ。

こうした二層構造で描かれる団地とは、韓国社会のメタファーでもある。裕福に現代的な生活を手にした人々=犬を飼う住民。昔ながらの環境で生きる貧困層=犬を食べ物として見る側の人間。なぜ犬なのか?

韓国は1988年のソウルオリンピックの際、国内での犬食の取り締まりを行った。犬食は中国や韓国の食文化であるが、西洋においては日本の鯨肉食以上に理解されない文化である。韓国は、オリンピック開催に辺り、近代化と引き換えに犬食文化を捨てることを選択したのである。つまり、犬は踏み絵であった。近代化=西洋化・都市化の恩恵を受けている人々と、そうではない派。この2つの存在が犬へのスタンスとして描かれ、彼らが別レイヤーとして共存する場である団地が描かれているのだ。

この物語は、“プレ近代”の側のユンジュが“近代”の側に廻る話として展開していく。ユンジュの妻は会社を辞めて、手にした退職金をユンジュが大学教授になるための賄賂に充てようと考えていた。そして、残りの金で高級犬を買ってくる。だが、そんな嫁の意図を知らないユンジュは、その犬を散歩中奪われてしまい、嫁の機嫌を損ねてしまう。ユンジュが教授になるためには、犬をホームレスや管理人のおじさんたち食われる前に奪い返さなくてはならないのだ。最終的にユンジュは、犬を奪い返し、賄賂に充てる金を得て教授になる。

犬を殺す側から飼う側に廻ったユンジュは、上のレイヤーへと階層上昇を果たし、豊かな生活を送るようになる。この映画における団地が韓国社会のメタファーなら、禁を破って住民みなが犬を飼っているという状態は何を意味するのか。誰もが近代化を手に入れるのと引き換えに、何かに目をつぶって生きているということなのだろう。

近代、プレ近代と2つのレイヤーがあり、主人公がその間の階層上昇をなりふり構わずに果たす。これがポン・ジュノ作品に共通するひとつのパターンである。

■『殺人の追憶』を都市化という視点で辿る

`86年~`91年にかけて、計10名が殺され、迷宮入りした華城連続殺人事件をモチーフにした『殺人の追憶』においても、このパターンは踏襲されている。

刑事物の常だが、事件が発生し、事件現場に刑事がやってくるところからドラマは始まる。殺人事件の現場は、凶悪犯罪とは無縁のソウル近郊の京畿道華城郡の農村。事件に対して、地元の刑事たちは地縁から洗っていく。被害者の人間関係、怨恨といったごく当たり前の犯罪捜査である。しかし、これまで通用した被害者周辺にいるあやしい奴を痛めつけ、自白に追い込むという手法では事件は解決しない。一方、この事件を担当するためにソウルから赴任してくるソ刑事は、もっと合理的な犯罪捜査の手法を持って犯人の割り出しに迫る。この作品における2つのレイヤーとは、地元刑事のパク刑事とソウルから来た4年制大学を出たソ刑事、つまり地元と都会の2つのレイヤーである。

当初、物語の舞台である華城郡は、どこまでも広がる田園風景としてのみ描かれるが、物語が佳境に入るとともに、この地方の本当の姿が映し出されていく。容疑者を追跡して市街地に踏み入れるとそこでは大規模な工事が行われていて、多くの現場労働者が働いているのだ。物語序盤で延々見せられた田園風景とは裏腹に、華城郡は大規模工業団地へと生まれ変わろうとしていた。また、有力な容疑者としてある男に行き当たるが、彼は新設の工場で経理の仕事をしている。被害者との交友関係からは辿り得ない「よそもの」である。

`80年代当時、韓国では社会運動が盛んになり、警察は公安方面にばかり注意を払い、人員を割いていた。っていた。そのために、犯罪捜査にまで手が回らなかったという。こうした背景の説明は、この映画の冒頭にも語られるが、本事件が未解決に終わった理由はそれだけではない。`88年のソウルオリンピック開催に向けて、ソウルとその近郊は急速な都市化を遂げていた。都市化が進むと、犯罪捜査は難易度を増す。都市で起こる殺人事件は地縁つながりを探しても、犯人には行き着かないケースが出てくるのだ。日本でも、`68年から`69年にかけて起こった、永山則夫による連続ピストル射殺事件は、地方から都市への大量の人口流入、東京の都市化を背景にして起きた無差別殺人事件である。永山が捕まったのは、金銭目的で起こした事件で捕まり、彼の持っていたピストルが連続射殺魔事件のものと一致したせいであり、いわば偶然でしかなかったと言える。

物語中でもパク刑事がアメリカと韓国の国土の広さの違いを説いてFBI論を振りかざす。だが、FBIが必要になったのは、パク刑事が言うように、ただアメリカの国土が広大だからではない。20世紀に入って人口移動が始まったからである。元々南部で働いていた労働者層が、中西部の工業地帯へと流入し、都市が進んだ。工場労働者たちは、農業と違い場所に根付くわけではない。工場から工場へ、都市から都市へと場所を動く。犯罪も、土地に根付いたものから流動的な移動を伴うようになる。それに従い、州をまたがって犯罪捜査を行なうFBIのような組織が必要とされるようになったのだ。

華城連続殺人事件をモチーフとした『殺人の追憶』も、韓国社会の都市化を背景とした物語といえるだろう。映画の最後は、15年後の2003年に時間移動する。パク刑事は、かつて死体が発見された田んぼのあぜ道に作られた用水の小さなトンネルをのぞき込む。そのトンネルの光景は、かつて限りなくクロに近いと思われた容疑者を逮捕できずに彼が去っていったトンネルの光景の記憶と結びついている。15年後のパク刑事は、刑事の職を辞めて怪しげな健康グッズの販売の仕事をして豊かな暮らしをしている。かつて、女と暮らした古いアパートの小さなではなく、広く新しいリッチなマンションで家族と一緒の生活である。ここにも、15年の間の都市化の進行が強く強調されている。

地元刑事の側のレイヤー、つまりプレ近代の側だった彼は、15年経って事件の解決を放棄して、都市側のレイヤーへと移動を果たしている。その一方、連続殺人事件は未解決のま放置されたままだ。事件の被害者、その遺族たちは、都市化、近代化の犠牲となり、時代に取り残されてしまっている。賄賂によって教授になった『ほえる犬は噛まない』のユンジュと同じように、彼もまた裕福な近代の側に、なりふり構わない階層上昇を果たしたのだ。

■経済成長・都市化を巡る物語

こうした都会←→田舎、近代←→プレ近代といった二層のレイヤー構造となりふりかまわぬ階級上昇の物語は、ジュノの最新作『母なる証明』においても見てとることができる。主人公たちは田舎町で昔ながらの貧しい生活を営んでいる。しかし、街の近郊にはゴルフ場が造成され、富裕層たちが出入りしている。富めるものたちとそうでないもの。それが明らかに描かれる。そして、主人公の不良友だちのジンテは、要領よく金を得ることで、階層上昇を果たしていく。一方、キム・ヘジャ演じる母親は、息子の罪をさらなる弱者におしつけるというなりふり構わない行為に出る。前出の2作品は、国家の選択として近代化の側を選んだ韓国社会の図として見ることができるが、本作は、より個人のエゴの世界として描いている。

さらに、ジュノによる怪獣映画『グエムル』においては、近代化・経済成長の陰の立役者としてのアメリカが取り上げられ、二層よりも複雑な構造を持っている。だが、ソウルの都心の話でありながら、娘をさらわれる主人公の家族だけが都市化に取り残された人々で、それ以外のすべての存在が近代=都会のレイヤーであると言えるかもしれない。

韓国における経済成長の時期、そして急速な都市化が始まった時期は、日本のそれとは違う。日本の高度経済成長とは、1950年の朝鮮戦争特需から始まり、`70年代初頭のオイルショック辺りまでを指し、東京オリンピックが開催された一九六四年が辺りが開発や都市化の頂点だった。一方、韓国の“漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長期は、日韓基本条約を契機にした円借款が始まる`65年から`90年代末までを指す。韓国の近代化・都市化のいったんの頂点は、ソウルオリンピックが開催された1988年前後だろう。同時に、`80年代末は、軍事政権への抵抗運動=民主化運動に沸いた時期であったことも重要である。

1969年生まれのポン・ジュノは、華城連続殺人事件やソウルオリンピック、そして民主化運動の盛り上がりをリアルタイムに経験してきた世代でもあり、そういった農村社会から都市化という韓国社会の構造転換を目の当たりにしてきている。作品のモチーフに、急速な都市化・近代化になりふりかまわずに乗った人たちと、それに取り残された人たちという構図が多く出てくるのは、世代的な問題意識と言っていいだろう。

日本映画も、約50年ほど前に近代化・都市化をモチーフとした物語ばかり作っていた時代があった。60年代の鶴田浩二や藤純子、小林旭なんかが出てくる映画のパターンは大体こういうものだった。地元のやくざに新興のやくざがケンカをふっかける。新興やくざはその土地の土建業者と手を結び、レジャー施設の建設を予定している。地元やくざは沖仲士(港湾労働者)の流を組んでおり、新興やくざはレジャー産業をバックにしている。背景として背負うものが第二次産業から第三次産業へと段階を踏んでいる。つまり、これらは産業構造の転換を背景にした物語群であったのだ。

物語の流れ上、主人公は地元側に付くが、最終的にケンカは新興やくざが勝つ。鶴田浩二は単身敵地に乗り込み奮闘するが、結局は敗れ去っていくものの美学でしかない。近代化の流れには抗えず破れていく。敗北者は美学を語ることが許されると任侠ものの世界では決められているのだ。

潔く敗れていくものを美しいものとして愛でる。そんな日本特有の美学をモチーフとして、日本映画は「近代への移行」を描いてきた。一方、ポン・ジュノは、「近代への移行」と「それに抵抗する残余」を描いてきたと言えるだろう。『ほえる犬は噛まない』ではな、現代を舞台に、ごく当たり前に見える移行とささやかな違和感が描かれ、『殺人の追憶』では、金過去を舞台に、移行の影にある巨大で薄気味悪い残余を描いた。そして、『母なる証明』は、それを再度現代に持ってきて、移行させまいとする残余を「母」という形象の下、それを全面化させたのだ。

美学抜きの生々しさ、無骨さ、いびつさがポン・ジュノ映画の特徴である。こういったものの言い方では、まだ率直とは言えない。後味の悪さ、置いてけぼり感は、ハリウッド式ハッピーエンドと任侠の美学で映画を学んだ身からしてみれば、簡単には受け入れがたい。ポン・ジュノ作品は、観るものに体力の消耗を要求するのだ。

(『ユリイカ』2010.5月号ポン・ジュノの特集に書いた『都市化とそれに抵抗する残余』を改稿したものです)

2010年3 月12日 (金)

コリー・ハイムと1980年代の青春映画と『シャコタン☆ブギ』 このエントリーをはてなブックマークに追加

コリー・ハイムが亡くなったそうだ。まだ38歳だった。

10代で映画デビューし、「ルーカスの初恋メモリー」「ロストボーイ」など80年代の作品の少年役で活躍。近年、薬物乱用歴を大衆紙などで告白して注目を集めた。コリー・ハイム氏死去 カナダ出身の俳優(共同通信)

僕は中学高校時代にはよく1人でアメリカのハイスクールもの青春映画を観に行っていた。コリー・ハイムとコリー・フェルドマンが共演した『運転免許証』(1988)という映画と、『フェリスはある朝突然に』(1986)は、当時とても好きな作品だった。前者はDVD化されてないので、15歳の時に見たきりではあるけど。

『フェリス~』の主役マシュー・ブロデリックは、先週のアカデミー賞授賞式に、ジョン・フューズの追悼枠で登場していて、ふけたなあと思ったらなんと47歳。フェリスのころがもう20代半ばだったと知って驚いた。

さて、この両映画、どちらもハイスクールライフと自動車という、アメリカの青春映画の二大定番アイテムが描かれる。『運転免許証』は、免許試験に落ちた高校生の2人が、コリー・ハイムのおじいちゃんのキャデラックを拝借してガールフレンドとデートに行く話。『フェリスはある朝突然に』は、お調子者のフェリスが、学校をさぼって父親の自慢の古いフェラーリを拝借し、ガールフレンドとナード風の友人とシカゴの都心に遊びに行く話。

どちらの作品にも共通するのは、
1,大人とは大切な車を所有しているものである
2,それをかすめ取って乗ることが少年の試練である
3,そして、その目的は、ガールフレンドとのデートである

という点。少年が大人になるための儀式、通過儀礼として自動車を盗む。ちなみに、この視点を逆転させて、大切な車を盗まれそうになる大人の立場というのを描くと『グラントリノ』になる。

一方、1980年代の日本で始まった漫画が『シャコタン☆ブギ』(1986~)である。高校の先輩後輩の関係であるハジメとコージ。ダブりの高校生で、免許を持っているハジメが、ソアラを買うところから物語は始まる。ソアラは、値段も高いラグジュアリーカーとして登場したが、むしろ当時の若者たちの間で売れたクルマだった。しかも、走り屋系、ナンパ系の両者に人気があった。その高級車を、ハジメは、「高校出たら本気で百姓する」と親をだまして買ってもらったのだ。

主人公2人が、このソアラを駆ってナンパに出かけ、恐い不良たちにからまれるというのが、この漫画の基本線。絵を見ずに、プロットだけを取り出してみると、80年代のアメリカのハイスクールものの定番とよく似ていることがわかる。『シャコタン☆ブギ』第1話の冒頭、コージが原動機付き二輪に乗ってやってくるが、これは『アメリカン・グラフティ』(1973)の冒頭を意識しているのかもしれない。めちゃめちゃ日本的、超ドメスティックなクルマ好きの若者たちの世界を描いたように見える本作も、実はアメリカ青春映画を下敷きにしていたのだと思う。

アメリカだけでなく、日本でも自動車を巡る青春ものが作られるようになったのが1980年代という時代である。そのころの両国の自動車産業は、真正面からぶつかっていた。日米貿易摩擦の時代である。2度のオイルショック、イラン革命を経て、ガソリンが高騰。でかくて燃費の悪いアメリカ車の時代から、小型で燃費がいい日本車の時代になりつつあった。デトロイトを始め、米の自動車産業は空洞化し、日本車がたたき壊される映像などを見たのを覚えている。こうしたジャパンバッシングを受け、日本の自動車産業は積極的に米の現地工場での生産を始めるようになっていった。

ちなみに、先日休刊した『NAVI』が創刊されたのも1984年のこと。いまどきは、若者のクルマ離れが囁かれるようになってもう久しい。青春と自動車は、もう結びつかないものになり、雑誌などで、「隣に乗せてドライブしたい女性タレントは?」みたいなアンケート項目を立てても、もう成立しないのだろう。そんな日本とはうって変わって、いまどきは、インドや中国で、自動車が登場する青春映画なんかが作られていたりするかもしれない。

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2009年8 月14日 (金)

『サマーウォーズ』感想、ヱヴァ新劇場版:破との共通点とか このエントリーをはてなブックマークに追加

『サマーウォーズ』観ておもしろかったんで、感想というか箇条書きに近いメモを。

Summerwars_4 主人公・健二(数学の天才)は高校生で、夏希に連れられてきただけの外部の人間。侘助(スーパーハッカー)は妾の子で一族の財産を使い込んだ放蕩息子、カズマ(カリスマゲーマー)は中学生で、家族の食事の場所に現れずに離れでずっとコンピューターをいじっているなど、家族との距離が少しある。

『サマーウォーズ』はそんな3人が共同体の危機を救うことでその構成員に認められるという、共同体の通過儀礼のお話として見ることができる。健二の場合は、婿候補としての外部からの参入パターン、侘助は「放蕩息子の帰還」パターン、カズマは共同体の子どもが一人前の構成員に承認されるパターン。

ただし、彼らが迎え入れられるのは、実はそんなに前時代的な大家族ではないというところは重要かと。
それぞれが自分の仕事と家族を持った核家族は、年に一度だけ家長の栄ばあちゃんの誕生日にだけ集合するわけで、恒常的な大家族ではない。カズマとハルク・ホーガンキャラの万助が、インターネットを通じた拳法の師匠弟子の関係にあったり、侘助と家長の栄が血縁はないのに、それ以上に深く結びついていたり、土地に紐付けられた旧弊的な大家族ではないというアピールがあちこちに配されている。そもそも、みんな別々の職能を持ち、稼業を継いでいるものはいないという設定でもある。

いわゆる大家族のイメージは横溝正史の世界。土地建物、財産、伝統が家族を結びつけ、それらを巡る争いがおきて、地元に伝わる因習が前近代的なおどろおどろしさを演出したりする。横溝正史の大家族ものは、そういった要素が全部入り乱れて殺人事件が起きる。
『サマーウォーズ』の家族は、すでに土地や財産は失われ、建物しかないという。大家族を構成しているのは栄ばあちゃんの人間的な求心力として描かれる。
その栄の死によって家族は立ち上がるが、その力が本当に集結するのは栄の遺言の手紙が開帳された瞬間だ。栄は遺言において、家族の定義を行う。“家族とは一緒に飯を食うこと”。それだけがメンバーシップなのだと伝えるのだ。

食文化というのは、作物を生む土地に紐付いているので、イタリア北部のナショナリズムの発露としてスローフードが出てきたように、排他的な思想を生みやすいアイテムだと思うのだけど、ここでは血縁や家名なんて重要じゃないというアイテムに用いられているのだろう。

というのはともかく、これにより家族は侘助を迎え入れて一緒に飯を食うことで戦闘態勢を立て直し、力を再集結させる。
この家族の女たちは常に食事の支度をし(台所に男も立たせておけばもっと現代的になった気がするのだけど)、栄が侘助に長刀を突きつけるシーンでは、食卓がすべてなぎ倒されるといったとように、食卓が象徴として描かれる。

ここで思い出したのがエヴァ。
『サマーウォーズ』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の共通点は、家族=共同体のメンバーシップを巡る物語で、その突破口として“食事”をキーポイントにしている点にある。
エヴァの破で、シンジも綾波もアスカも料理をして、弁当を作り、食事会の日に向けてバラバラの物語を収束させようとするのを思い出した。

あと、よかったのが、夏希先輩がネット民衆を熱狂を一身に背負ってAIと花札勝負するクライマックス。ヒロインにもかかわらず夏希のキャラが薄いのには理由がある。それは彼女には依り代の役割が与えられているから。依り代とはいわゆる狐憑きのように、なにかを下ろす役割。
彼女はネットの善意を一身に背負って闘うジャンヌ・ダルク的戦闘美少女である。火の鳥入った吉祥天女への変身も見所。鹿の耳と巫女の衣装という神道系ゆるキャラ、けどカラーリングは赤と青のアメリカンカラー、おっと最後の青い浴衣が「その者青き衣をまとい」なのかな、花札と言えば栄の声をあてている富司純子主演『緋牡丹博徒 花札勝負』もあるじゃないかとか、いろんなものを過剰に背負っている。

それ以外に『サマーウォーズ』を巡る論点としてあげたいのは、仮想空間のコミュニティOZについて。
“mixi”+“Wii”+“セカンドライフ”だというこの電子コミュニティの運営主体が、どこの誰なのかというのが一番気になる。
全世界の10億人がアカウントをもっており、そこでのアカウントを通じて公共のインフラにまで影響を与えることができるというから、社会基盤として浸透している。

運営元は民間なのか国家なのか。一企業が国家の枠を超えて独占的に提供しているサービスなのか、それともひとつのサービスのように見えるが、実はさまざまな私企業が提供するサービス主体のより集めであり、OZは単なるプラットフォームなのか。それとも超国家的な政治主体みたいなものが存在し、国連軍のような形でオンラインコミュニティの運営を行っているのか。

どちらにせよ、ネット上に世界政府的なものが誕生している可能性が高い。一時期よく言われたGoogleの世界政府インフラとか、グーグルゾンみたいな既存のマスコミをすべて資本下に置いて権力の機能を独占するみたいな感じとは少し違う。もっとオンライン行政っぽい感じ。Greeやモバゲーが拡大して世界政府になるのか問題。

でも、マスコットキャラの鯨の名が「ジョンとヨーコ」なあたりが、言葉や国境の壁を超えた「イマジン」的なマルチチュード的な世界も匂っている気もしなくもない。人工知能「ラブマシーン」をOZに泳がせたのが米軍で、「グエムル」チックなアメリカが敵みたいな話になっている部分からは、OZがアメリカの覇権に対抗する存在であることも伺えるし。

そんな反アメリカの描き方とか、飯を作る女と社会で働く男みたいな家族における男女の役割の描き方とか、べたな依り代と萌えが結びついた夏希のキャラとか、「ジョンとヨーコ」の世界政府とか、たしかに突っ込まれる部分が多いのも確かではあるが、おもしろかった。

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2008年7 月26日 (土)

上京物語と『すかんぴんウォーク』 このエントリーをはてなブックマークに追加

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久しぶりにトム・クルーズの『カクテル』を観た。今観る方がおもしろい。高校入試の翌日に観に行って以来だから、ざっと20年ぶり。

話は単純な、成り上がり上京ストーリー。

上昇志向の強い若者が、ニューヨークにやってきて、バーテンダーのバイトを始め、先輩バーテンダーのコグランと出会い、彼の指導の下、人気バーテンダーとして成功。しかし、経営者として大成功を夢見るトムは、コグランと袂を分かち、自分の道を進む。やがて別々の立場になった二人は再び出会うが……。

といったストーリーなのだけど、吉川晃司の『すかんぴんウォーク』のプロットに似ていることに気づく。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17408/story.html

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