2010年7 月14日 (水)

映画『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』感想 このエントリーをはてなブックマークに追加

あまり評判がよくないので、出来がイマイチなの覚悟で観に行ったら、まったく余計な心配だった。

『踊る~』シリーズでは、本当の敵は犯人ではなく、警察組織そのものであるということを、いく度も形を変えて語ってきた。特に劇場版シリーズにおける犯人とは、警察組織が対峙できない相手として設定されてきた。

1作目では、縦割りのマニュアル捜査では対処できない相手として犯人が設定された。常識的な動機を持たない子どもが犯人で、足を使って捜査する現場の刑事が解決の道を見つけるのだ。

2作目では、リーダーを持たない組織としての犯人グループが設定。つまり、命令系統はなく、目的だけを共有し、連携しない犯罪集団である。攻殻機動隊におけるスタンドアローンコンプレックス現象と言い換えてもいい。ピラミッド型組織で意思決定から行動までのスピードに欠ける警察は、このグループに対処できない。

こうした犯人に翻弄され、本当の敵は自分たちの組織そのものでしたというのが、このドラマシリーズ自体のテーマである。

さて、今回の犯人はさらにパワーアップした。
今回も、いつもどおり本庁と所轄の間で争いが始まる。すると、その両者の間にをピタリと収める補佐官の小栗旬が登場する。彼は、個々の立場の人間それぞれにインセンティブを与えることで、場を調整するスペシャリストである。これまでシリーズが取り上げてきた最大のテーマをいとも簡単に解決する最強の敵の登場だ。

そして、今回の犯人は、この小栗旬の鏡像として描かれている。

ここからはネタバレになる。

今作の主犯は、一作目に脇役的に登場した小泉今日子演じる犯罪心理学に通じる快楽殺人の日向真奈美である。ただし、彼女が犯人だとわかるのは終盤のこと。彼女は実行犯ではなく、拘置所から実行犯を動かしている。小泉のこの役は、言うまでもないが『羊たちの沈黙』のシリーズでおなじみのハンニバル・レクターのアレンジである。

踊る3とは、レクター博士が、インターネットの発達した現代に現れたらどうなるかという、興味深い思考実験でもある。

一作目でも、彼女はホームページを持ち、ネットで支持されている猟奇殺人マニアとして登場した。このドラマが、当初は並の視聴率だったにもかかわらず、主に放送終了後にネットで支持されるようになり、人気ドラマへと成長した。そんな社会とドラマを結ぶ関係性の変化を、うまく劇場版の題材として取り上げていた。今作は、ネットのソーシャルメディア的側面を描く。ちょっと思ったのは、物語にもツイッターを使うべきだったということ。

今回の物語は、何も盗まれない窃盗事件と誰も被害に遭ってないバスジャック事件の発生から始まる。これらは犯人の陽動作戦である。翌日、拳銃と銃殺死体が放置された船が発見される。使われた拳銃は、湾岸署の引越と、両陽動事件の最中に盗まれた三丁の拳銃のうちの一丁だった。第二の殺人も、同じように発見される。しかし、これらもまた陽動作戦でしかなかった。

Tirant 新しい湾岸署は、対テロリストと称し、鉄壁のガードシステムに守られている。しかし、その過剰な設備と、警察の過剰防備の心理の逆を突いた犯人は、セキュリティシステムを誤稼働させ、捜査員と引越業者を署内に閉じ込めることに成功。その署内に時限装置付きの毒ガス噴射システムを仕掛け、これまで青島が逮捕してきた犯人全員の釈放を要求するのだ。ウルトラ兄弟たちにやられた怪獣の怨念で生まれたタイラントみたいな話である。

この釈放要求の件は、日本赤軍のクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件の“超法規的処置”を元ネタとして、それらを連想させるように作られている。犯人が、中東への逃亡を考えているのも、重信房子を彷彿させる。

主犯の日向真奈美は拘置所の中にいながら、これらを企てている。拘置所に出入りするソーシャルワーカーの臨床心理士を手なずけて、彼を通してネットで共犯者を募り、自分の釈放を画策したのだ。また、彼を通してネット世論を動かし、自分の崇拝者をネット中に生み出した。彼女は、拘置所に入りながらカリスマになっている。そして、最終的に自殺を遂げることで、その影響力をさらに高めようと画策する。それがこの事件の真の目的である。

彼女の手法を青島ら警察側は単なるマインドコントロールと分析し、教唆犯であると解釈するが、それは違う。彼女は、“私は彼らに生きがいを与えただけ(台詞うろ覚え)”なのだという。彼女の取った手法は、小栗旬演じる補佐官とたいして変わらない。

小栗旬の補佐官はこの事件を政治の道具に使おうとする上層部を「調整」する。この事件を人質事件のテストケースとして国民感情の実験に使いたい政府与党、よど号ハイジャック事件のときの超法規的処置ではなく、法規的にこれを処理したいと考えるどこかの官庁、正義漢の室井は教科書的な言動しか取れないが、小栗は彼らの利害関係を把握し、それぞれにメリットと責任回避の言い訳を与える解決法を提示する。組織の構成員にも、それぞれの立場と利益があるというのを理解し、ひとつひとつ穴を埋めていく。それが調整である。

一方、小泉今日子、社会で鬱屈しているネットゲーマーたちに現実を楽しむためのゲーム的なインセンティブを与えて、自発的に犯罪行動を促し、結果として自分の脱獄を成功させるのだ。それぞれの立場や欲望の在り方を理解し、それを調整するのだ。彼らをしあわせにすることができない現実の社会よりも、彼らにやりがいを見つけてあげられる自分の方が正しい。例えその結果が犯罪者への道であろうが、それを自ら選択したのは彼らなのだ。自分に罪があるわけではない。

彼女の主張を代弁するならそういうことだろう。「やりがいの搾取」って何が悪いの? という議論がここからも展開できそうだ。また、この小泉の犯人像からは、犯罪への道筋を設計していく京極夏彦『絡新婦の理』の犯人を連想させる。あと、リバタリアン・パターナリズムみたいなものとも接続できそうだ。

さて、青島がこの似たもの同士として配置された2人に、真っ向立ち向かって勝利をおさめるわけではない。もちろん、事件を解決するのは主人公の青島である。だが、前作で悪役だった管理官の真矢みきが最後に敗北を認めたようなカタルシスはない。小栗旬が目を怪我する必然性はまったくわからなかったが、彼らは生き残るし、敗北しなかった。むしろ、勝者に映る。今作の評判が良くないのは、この辺にあるのだろう。青島は挫折したのだ。

とにかくひたすら正しいことをやってボトムアップ式に組織を変えようという青島の手法は、すでに事件を解決させたり、旧態然とした組織をよくするためには機能しないことが判明した。また、室井も挫折した。現場に理解を示し、組織を上からトップダウン式に変えていこうという室井の信念もまた、機能しないことがわかってしまった。

90年代末にテレビドラマシリーズとしてスタートしたこのシリーズは、年功序列、縦割りといった、日本的サラリーマン組織の弊害をいかに変えるべきかということを、青島刑事というキャラクターを通して描いてきた。今作が最後とは明示されたわけではないのだが、そのテーマには一端の終止符が打たれたことになるのかもしれない。

ラストの青島のコートの扱いが思わせぶりである。彼がコート<刑事の魂みたいなものを象徴している>を失ってしまったと解釈すべきが、犯人にかぶせて中和しているという解釈なのか。

いままでは、おとぎ話として作ってこざるを得なかったが、本作はちょっとリアルに組織の限界を描いた。やっぱり、シリーズのファンは、それでも青島の正義漢やまっすぐなところを肯定するような描き方を期待したのだろう。その気持ちはよくわかる。

本シリーズは、中心テーマ以外にもみどころは多かった。お台場の発展(本シリーズはフジテレビのお台場移転記念で製作された)、監視社会化、9.11以後の世界、そして『24』以後の刑事ドラマ表現、さまざまなテーマが加わりながらシリーズは続いてきた。

考えてみれば、97年の劇場版一作目では、キョンキョンのノートPCにはインフォシークのシールが貼ってあった。13年経って、インフォシークなんてもう誰も知らない。パソコンは得意でなかったはずの青島も(とはいえ、元コンピュータ系商社の営業か)、「ドメイン名を変えてみれば」などと、ちょっとネットに詳しくなっていた。シリーズを通して、多少荒唐無稽とはいえ、ネットとサイバー犯罪、コンピュータ時代の犯罪捜査についての変化も描かれてきた。あまりに国民的ヒットシリーズになったため、ある種の人たちには敬遠される本シリーズだけど、こうした90年代半ば以降の日本を眺める材料としても、十分おもしろい。というか、僕は今作含め、全部好きだ。

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2010年6 月18日 (金)

ポン・ジュノ作品と日本の任侠映画で比較する日韓の都市化・近代化 このエントリーをはてなブックマークに追加

団地愛好家の大山顕は、ソウルの街を「団地天国」と称している。そして、「ソウルに住むということは団地に住むこととほぼ同義」なのだという。東京のニュータウンの開発は都心ではなく、郊外に向かって進行したが、ソウルでは都心部、それも高齢者の多い地域を率先してニュータウン化を進めるなど、大胆な都市計画が進められた。東京の主たる光景とは、いまだ低層の一軒家が視界の限りに立ち並ぶ杉並区的な町並みが大半だが、ソウルは都市全体に渡って高層住宅が林立する。それは、都心を流れる川・漢江を中心に都市の光景が映し出される『グエムル』の背景を見ていてもよくわかる。

ソウル市民の数は、韓国の全人口の二割を超える1000万人強。さらに首都近郊まで含めると、韓国人の半数近くが首都圏に住んでいるという。韓国は、極端な都市集中社会であり、それが進行したのは1960年代以降と、わりと最近のことである。

■団地で犬を飼う人々と犬を喰う者たち

ポン・ジュノの長編デビュー作『ほえる犬は噛まない』は、物語のほぼすべてが団地の建物内で進行する団地映画である。ジュノは、団地をひとつの世界に見立てることで、キッチュなコメディ映画としてこの作品を成立させている。

団地の住人たちはみな豊かな生活を送り、愛玩用の犬を飼っている。団地の規則でペットを飼うことは禁止されているのだが、誰もそんな規則を守っていない。そして、その一方で団地の中には彼らとは別のレイヤーで生活している人たちがいる。地下室に住むホームレスと管理人のおじさんである。彼らにとっては犬は文字通りの“食い物”でしかない。住人の犬をさらっては、こっそり鍋にして食べているのだ。

主人公のユンジュは、この団地に住む非常勤の大学講師。日本同様、非常勤講師は貧しい生活を送っている。教授になるためには、偉い教授に袖の下を渡さなくてはならないが、貧しい彼にはその金がない。生活費を稼いでいるのは、妊娠中の妻である。そんなユンジュは犬の鳴き声、そして団地のルールを破り犬を飼うものたちに神経を尖らせている。物語の前半においては、彼は犬を捕まえ、あわよくば殺してしまおうという立場を取る。ユンジュは、どちらかと言えば犬が“食い物”に見えるホームレスや管理人側に属しているのだ。

こうした二層構造で描かれる団地とは、韓国社会のメタファーでもある。裕福に現代的な生活を手にした人々=犬を飼う住民。昔ながらの環境で生きる貧困層=犬を食べ物として見る側の人間。なぜ犬なのか?

韓国は1988年のソウルオリンピックの際、国内での犬食の取り締まりを行った。犬食は中国や韓国の食文化であるが、西洋においては日本の鯨肉食以上に理解されない文化である。韓国は、オリンピック開催に辺り、近代化と引き換えに犬食文化を捨てることを選択したのである。つまり、犬は踏み絵であった。近代化=西洋化・都市化の恩恵を受けている人々と、そうではない派。この2つの存在が犬へのスタンスとして描かれ、彼らが別レイヤーとして共存する場である団地が描かれているのだ。

この物語は、“プレ近代”の側のユンジュが“近代”の側に廻る話として展開していく。ユンジュの妻は会社を辞めて、手にした退職金をユンジュが大学教授になるための賄賂に充てようと考えていた。そして、残りの金で高級犬を買ってくる。だが、そんな嫁の意図を知らないユンジュは、その犬を散歩中奪われてしまい、嫁の機嫌を損ねてしまう。ユンジュが教授になるためには、犬をホームレスや管理人のおじさんたち食われる前に奪い返さなくてはならないのだ。最終的にユンジュは、犬を奪い返し、賄賂に充てる金を得て教授になる。

犬を殺す側から飼う側に廻ったユンジュは、上のレイヤーへと階層上昇を果たし、豊かな生活を送るようになる。この映画における団地が韓国社会のメタファーなら、禁を破って住民みなが犬を飼っているという状態は何を意味するのか。誰もが近代化を手に入れるのと引き換えに、何かに目をつぶって生きているということなのだろう。

近代、プレ近代と2つのレイヤーがあり、主人公がその間の階層上昇をなりふり構わずに果たす。これがポン・ジュノ作品に共通するひとつのパターンである。

■『殺人の追憶』を都市化という視点で辿る

`86年~`91年にかけて、計10名が殺され、迷宮入りした華城連続殺人事件をモチーフにした『殺人の追憶』においても、このパターンは踏襲されている。

刑事物の常だが、事件が発生し、事件現場に刑事がやってくるところからドラマは始まる。殺人事件の現場は、凶悪犯罪とは無縁のソウル近郊の京畿道華城郡の農村。事件に対して、地元の刑事たちは地縁から洗っていく。被害者の人間関係、怨恨といったごく当たり前の犯罪捜査である。しかし、これまで通用した被害者周辺にいるあやしい奴を痛めつけ、自白に追い込むという手法では事件は解決しない。一方、この事件を担当するためにソウルから赴任してくるソ刑事は、もっと合理的な犯罪捜査の手法を持って犯人の割り出しに迫る。この作品における2つのレイヤーとは、地元刑事のパク刑事とソウルから来た4年制大学を出たソ刑事、つまり地元と都会の2つのレイヤーである。

当初、物語の舞台である華城郡は、どこまでも広がる田園風景としてのみ描かれるが、物語が佳境に入るとともに、この地方の本当の姿が映し出されていく。容疑者を追跡して市街地に踏み入れるとそこでは大規模な工事が行われていて、多くの現場労働者が働いているのだ。物語序盤で延々見せられた田園風景とは裏腹に、華城郡は大規模工業団地へと生まれ変わろうとしていた。また、有力な容疑者としてある男に行き当たるが、彼は新設の工場で経理の仕事をしている。被害者との交友関係からは辿り得ない「よそもの」である。

`80年代当時、韓国では社会運動が盛んになり、警察は公安方面にばかり注意を払い、人員を割いていた。っていた。そのために、犯罪捜査にまで手が回らなかったという。こうした背景の説明は、この映画の冒頭にも語られるが、本事件が未解決に終わった理由はそれだけではない。`88年のソウルオリンピック開催に向けて、ソウルとその近郊は急速な都市化を遂げていた。都市化が進むと、犯罪捜査は難易度を増す。都市で起こる殺人事件は地縁つながりを探しても、犯人には行き着かないケースが出てくるのだ。日本でも、`68年から`69年にかけて起こった、永山則夫による連続ピストル射殺事件は、地方から都市への大量の人口流入、東京の都市化を背景にして起きた無差別殺人事件である。永山が捕まったのは、金銭目的で起こした事件で捕まり、彼の持っていたピストルが連続射殺魔事件のものと一致したせいであり、いわば偶然でしかなかったと言える。

物語中でもパク刑事がアメリカと韓国の国土の広さの違いを説いてFBI論を振りかざす。だが、FBIが必要になったのは、パク刑事が言うように、ただアメリカの国土が広大だからではない。20世紀に入って人口移動が始まったからである。元々南部で働いていた労働者層が、中西部の工業地帯へと流入し、都市が進んだ。工場労働者たちは、農業と違い場所に根付くわけではない。工場から工場へ、都市から都市へと場所を動く。犯罪も、土地に根付いたものから流動的な移動を伴うようになる。それに従い、州をまたがって犯罪捜査を行なうFBIのような組織が必要とされるようになったのだ。

華城連続殺人事件をモチーフとした『殺人の追憶』も、韓国社会の都市化を背景とした物語といえるだろう。映画の最後は、15年後の2003年に時間移動する。パク刑事は、かつて死体が発見された田んぼのあぜ道に作られた用水の小さなトンネルをのぞき込む。そのトンネルの光景は、かつて限りなくクロに近いと思われた容疑者を逮捕できずに彼が去っていったトンネルの光景の記憶と結びついている。15年後のパク刑事は、刑事の職を辞めて怪しげな健康グッズの販売の仕事をして豊かな暮らしをしている。かつて、女と暮らした古いアパートの小さなではなく、広く新しいリッチなマンションで家族と一緒の生活である。ここにも、15年の間の都市化の進行が強く強調されている。

地元刑事の側のレイヤー、つまりプレ近代の側だった彼は、15年経って事件の解決を放棄して、都市側のレイヤーへと移動を果たしている。その一方、連続殺人事件は未解決のま放置されたままだ。事件の被害者、その遺族たちは、都市化、近代化の犠牲となり、時代に取り残されてしまっている。賄賂によって教授になった『ほえる犬は噛まない』のユンジュと同じように、彼もまた裕福な近代の側に、なりふり構わない階層上昇を果たしたのだ。

■経済成長・都市化を巡る物語

こうした都会←→田舎、近代←→プレ近代といった二層のレイヤー構造となりふりかまわぬ階級上昇の物語は、ジュノの最新作『母なる証明』においても見てとることができる。主人公たちは田舎町で昔ながらの貧しい生活を営んでいる。しかし、街の近郊にはゴルフ場が造成され、富裕層たちが出入りしている。富めるものたちとそうでないもの。それが明らかに描かれる。そして、主人公の不良友だちのジンテは、要領よく金を得ることで、階層上昇を果たしていく。一方、キム・ヘジャ演じる母親は、息子の罪をさらなる弱者におしつけるというなりふり構わない行為に出る。前出の2作品は、国家の選択として近代化の側を選んだ韓国社会の図として見ることができるが、本作は、より個人のエゴの世界として描いている。

さらに、ジュノによる怪獣映画『グエムル』においては、近代化・経済成長の陰の立役者としてのアメリカが取り上げられ、二層よりも複雑な構造を持っている。だが、ソウルの都心の話でありながら、娘をさらわれる主人公の家族だけが都市化に取り残された人々で、それ以外のすべての存在が近代=都会のレイヤーであると言えるかもしれない。

韓国における経済成長の時期、そして急速な都市化が始まった時期は、日本のそれとは違う。日本の高度経済成長とは、1950年の朝鮮戦争特需から始まり、`70年代初頭のオイルショック辺りまでを指し、東京オリンピックが開催された一九六四年が辺りが開発や都市化の頂点だった。一方、韓国の“漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長期は、日韓基本条約を契機にした円借款が始まる`65年から`90年代末までを指す。韓国の近代化・都市化のいったんの頂点は、ソウルオリンピックが開催された1988年前後だろう。同時に、`80年代末は、軍事政権への抵抗運動=民主化運動に沸いた時期であったことも重要である。

1969年生まれのポン・ジュノは、華城連続殺人事件やソウルオリンピック、そして民主化運動の盛り上がりをリアルタイムに経験してきた世代でもあり、そういった農村社会から都市化という韓国社会の構造転換を目の当たりにしてきている。作品のモチーフに、急速な都市化・近代化になりふりかまわずに乗った人たちと、それに取り残された人たちという構図が多く出てくるのは、世代的な問題意識と言っていいだろう。

日本映画も、約50年ほど前に近代化・都市化をモチーフとした物語ばかり作っていた時代があった。60年代の鶴田浩二や藤純子、小林旭なんかが出てくる映画のパターンは大体こういうものだった。地元のやくざに新興のやくざがケンカをふっかける。新興やくざはその土地の土建業者と手を結び、レジャー施設の建設を予定している。地元やくざは沖仲士(港湾労働者)の流を組んでおり、新興やくざはレジャー産業をバックにしている。背景として背負うものが第二次産業から第三次産業へと段階を踏んでいる。つまり、これらは産業構造の転換を背景にした物語群であったのだ。

物語の流れ上、主人公は地元側に付くが、最終的にケンカは新興やくざが勝つ。鶴田浩二は単身敵地に乗り込み奮闘するが、結局は敗れ去っていくものの美学でしかない。近代化の流れには抗えず破れていく。敗北者は美学を語ることが許されると任侠ものの世界では決められているのだ。

潔く敗れていくものを美しいものとして愛でる。そんな日本特有の美学をモチーフとして、日本映画は「近代への移行」を描いてきた。一方、ポン・ジュノは、「近代への移行」と「それに抵抗する残余」を描いてきたと言えるだろう。『ほえる犬は噛まない』ではな、現代を舞台に、ごく当たり前に見える移行とささやかな違和感が描かれ、『殺人の追憶』では、金過去を舞台に、移行の影にある巨大で薄気味悪い残余を描いた。そして、『母なる証明』は、それを再度現代に持ってきて、移行させまいとする残余を「母」という形象の下、それを全面化させたのだ。

美学抜きの生々しさ、無骨さ、いびつさがポン・ジュノ映画の特徴である。こういったものの言い方では、まだ率直とは言えない。後味の悪さ、置いてけぼり感は、ハリウッド式ハッピーエンドと任侠の美学で映画を学んだ身からしてみれば、簡単には受け入れがたい。ポン・ジュノ作品は、観るものに体力の消耗を要求するのだ。

(『ユリイカ』2010.5月号ポン・ジュノの特集に書いた『都市化とそれに抵抗する残余』を改稿したものです)

2010年3 月12日 (金)

コリー・ハイムと1980年代の青春映画と『シャコタン☆ブギ』 このエントリーをはてなブックマークに追加

コリー・ハイムが亡くなったそうだ。まだ38歳だった。

10代で映画デビューし、「ルーカスの初恋メモリー」「ロストボーイ」など80年代の作品の少年役で活躍。近年、薬物乱用歴を大衆紙などで告白して注目を集めた。コリー・ハイム氏死去 カナダ出身の俳優(共同通信)

僕は中学高校時代にはよく1人でアメリカのハイスクールもの青春映画を観に行っていた。コリー・ハイムとコリー・フェルドマンが共演した『運転免許証』(1988)という映画と、『フェリスはある朝突然に』(1986)は、当時とても好きな作品だった。前者はDVD化されてないので、15歳の時に見たきりではあるけど。

『フェリス~』の主役マシュー・ブロデリックは、先週のアカデミー賞授賞式に、ジョン・フューズの追悼枠で登場していて、ふけたなあと思ったらなんと47歳。フェリスのころがもう20代半ばだったと知って驚いた。

さて、この両映画、どちらもハイスクールライフと自動車という、アメリカの青春映画の二大定番アイテムが描かれる。『運転免許証』は、免許試験に落ちた高校生の2人が、コリー・ハイムのおじいちゃんのキャデラックを拝借してガールフレンドとデートに行く話。『フェリスはある朝突然に』は、お調子者のフェリスが、学校をさぼって父親の自慢の古いフェラーリを拝借し、ガールフレンドとナード風の友人とシカゴの都心に遊びに行く話。

どちらの作品にも共通するのは、
1,大人とは大切な車を所有しているものである
2,それをかすめ取って乗ることが少年の試練である
3,そして、その目的は、ガールフレンドとのデートである

という点。少年が大人になるための儀式、通過儀礼として自動車を盗む。ちなみに、この視点を逆転させて、大切な車を盗まれそうになる大人の立場というのを描くと『グラントリノ』になる。

一方、1980年代の日本で始まった漫画が『シャコタン☆ブギ』(1986~)である。高校の先輩後輩の関係であるハジメとコージ。ダブりの高校生で、免許を持っているハジメが、ソアラを買うところから物語は始まる。ソアラは、値段も高いラグジュアリーカーとして登場したが、むしろ当時の若者たちの間で売れたクルマだった。しかも、走り屋系、ナンパ系の両者に人気があった。その高級車を、ハジメは、「高校出たら本気で百姓する」と親をだまして買ってもらったのだ。

主人公2人が、このソアラを駆ってナンパに出かけ、恐い不良たちにからまれるというのが、この漫画の基本線。絵を見ずに、プロットだけを取り出してみると、80年代のアメリカのハイスクールものの定番とよく似ていることがわかる。『シャコタン☆ブギ』第1話の冒頭、コージが原動機付き二輪に乗ってやってくるが、これは『アメリカン・グラフティ』(1973)の冒頭を意識しているのかもしれない。めちゃめちゃ日本的、超ドメスティックなクルマ好きの若者たちの世界を描いたように見える本作も、実はアメリカ青春映画を下敷きにしていたのだと思う。

アメリカだけでなく、日本でも自動車を巡る青春ものが作られるようになったのが1980年代という時代である。そのころの両国の自動車産業は、真正面からぶつかっていた。日米貿易摩擦の時代である。2度のオイルショック、イラン革命を経て、ガソリンが高騰。でかくて燃費の悪いアメリカ車の時代から、小型で燃費がいい日本車の時代になりつつあった。デトロイトを始め、米の自動車産業は空洞化し、日本車がたたき壊される映像などを見たのを覚えている。こうしたジャパンバッシングを受け、日本の自動車産業は積極的に米の現地工場での生産を始めるようになっていった。

ちなみに、先日休刊した『NAVI』が創刊されたのも1984年のこと。いまどきは、若者のクルマ離れが囁かれるようになってもう久しい。青春と自動車は、もう結びつかないものになり、雑誌などで、「隣に乗せてドライブしたい女性タレントは?」みたいなアンケート項目を立てても、もう成立しないのだろう。そんな日本とはうって変わって、いまどきは、インドや中国で、自動車が登場する青春映画なんかが作られていたりするかもしれない。

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2009年8 月14日 (金)

『サマーウォーズ』感想、ヱヴァ新劇場版:破との共通点とか このエントリーをはてなブックマークに追加

『サマーウォーズ』観ておもしろかったんで、感想というか箇条書きに近いメモを。

Summerwars_4 主人公・健二(数学の天才)は高校生で、夏希に連れられてきただけの外部の人間。侘助(スーパーハッカー)は妾の子で一族の財産を使い込んだ放蕩息子、カズマ(カリスマゲーマー)は中学生で、家族の食事の場所に現れずに離れでずっとコンピューターをいじっているなど、家族との距離が少しある。

『サマーウォーズ』はそんな3人が共同体の危機を救うことでその構成員に認められるという、共同体の通過儀礼のお話として見ることができる。健二の場合は、婿候補としての外部からの参入パターン、侘助は「放蕩息子の帰還」パターン、カズマは共同体の子どもが一人前の構成員に承認されるパターン。

ただし、彼らが迎え入れられるのは、実はそんなに前時代的な大家族ではないというところは重要かと。
それぞれが自分の仕事と家族を持った核家族は、年に一度だけ家長の栄ばあちゃんの誕生日にだけ集合するわけで、恒常的な大家族ではない。カズマとハルク・ホーガンキャラの万助が、インターネットを通じた拳法の師匠弟子の関係にあったり、侘助と家長の栄が血縁はないのに、それ以上に深く結びついていたり、土地に紐付けられた旧弊的な大家族ではないというアピールがあちこちに配されている。そもそも、みんな別々の職能を持ち、稼業を継いでいるものはいないという設定でもある。

いわゆる大家族のイメージは横溝正史の世界。土地建物、財産、伝統が家族を結びつけ、それらを巡る争いがおきて、地元に伝わる因習が前近代的なおどろおどろしさを演出したりする。横溝正史の大家族ものは、そういった要素が全部入り乱れて殺人事件が起きる。
『サマーウォーズ』の家族は、すでに土地や財産は失われ、建物しかないという。大家族を構成しているのは栄ばあちゃんの人間的な求心力として描かれる。
その栄の死によって家族は立ち上がるが、その力が本当に集結するのは栄の遺言の手紙が開帳された瞬間だ。栄は遺言において、家族の定義を行う。“家族とは一緒に飯を食うこと”。それだけがメンバーシップなのだと伝えるのだ。

食文化というのは、作物を生む土地に紐付いているので、イタリア北部のナショナリズムの発露としてスローフードが出てきたように、排他的な思想を生みやすいアイテムだと思うのだけど、ここでは血縁や家名なんて重要じゃないというアイテムに用いられているのだろう。

というのはともかく、これにより家族は侘助を迎え入れて一緒に飯を食うことで戦闘態勢を立て直し、力を再集結させる。
この家族の女たちは常に食事の支度をし(台所に男も立たせておけばもっと現代的になった気がするのだけど)、栄が侘助に長刀を突きつけるシーンでは、食卓がすべてなぎ倒されるといったとように、食卓が象徴として描かれる。

ここで思い出したのがエヴァ。
『サマーウォーズ』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の共通点は、家族=共同体のメンバーシップを巡る物語で、その突破口として“食事”をキーポイントにしている点にある。
エヴァの破で、シンジも綾波もアスカも料理をして、弁当を作り、食事会の日に向けてバラバラの物語を収束させようとするのを思い出した。

あと、よかったのが、夏希先輩がネット民衆を熱狂を一身に背負ってAIと花札勝負するクライマックス。ヒロインにもかかわらず夏希のキャラが薄いのには理由がある。それは彼女には依り代の役割が与えられているから。依り代とはいわゆる狐憑きのように、なにかを下ろす役割。
彼女はネットの善意を一身に背負って闘うジャンヌ・ダルク的戦闘美少女である。火の鳥入った吉祥天女への変身も見所。鹿の耳と巫女の衣装という神道系ゆるキャラ、けどカラーリングは赤と青のアメリカンカラー、おっと最後の青い浴衣が「その者青き衣をまとい」なのかな、花札と言えば栄の声をあてている富司純子主演『緋牡丹博徒 花札勝負』もあるじゃないかとか、いろんなものを過剰に背負っている。

それ以外に『サマーウォーズ』を巡る論点としてあげたいのは、仮想空間のコミュニティOZについて。
“mixi”+“Wii”+“セカンドライフ”だというこの電子コミュニティの運営主体が、どこの誰なのかというのが一番気になる。
全世界の10億人がアカウントをもっており、そこでのアカウントを通じて公共のインフラにまで影響を与えることができるというから、社会基盤として浸透している。

運営元は民間なのか国家なのか。一企業が国家の枠を超えて独占的に提供しているサービスなのか、それともひとつのサービスのように見えるが、実はさまざまな私企業が提供するサービス主体のより集めであり、OZは単なるプラットフォームなのか。それとも超国家的な政治主体みたいなものが存在し、国連軍のような形でオンラインコミュニティの運営を行っているのか。

どちらにせよ、ネット上に世界政府的なものが誕生している可能性が高い。一時期よく言われたGoogleの世界政府インフラとか、グーグルゾンみたいな既存のマスコミをすべて資本下に置いて権力の機能を独占するみたいな感じとは少し違う。もっとオンライン行政っぽい感じ。Greeやモバゲーが拡大して世界政府になるのか問題。

でも、マスコットキャラの鯨の名が「ジョンとヨーコ」なあたりが、言葉や国境の壁を超えた「イマジン」的なマルチチュード的な世界も匂っている気もしなくもない。人工知能「ラブマシーン」をOZに泳がせたのが米軍で、「グエムル」チックなアメリカが敵みたいな話になっている部分からは、OZがアメリカの覇権に対抗する存在であることも伺えるし。

そんな反アメリカの描き方とか、飯を作る女と社会で働く男みたいな家族における男女の役割の描き方とか、べたな依り代と萌えが結びついた夏希のキャラとか、「ジョンとヨーコ」の世界政府とか、挙げていくと鼻白むところが多いのも確かではあるが、おもしろかった。

2008年7 月26日 (土)

上京物語と『すかんぴんウォーク』 このエントリーをはてなブックマークに追加

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久しぶりにトム・クルーズの『カクテル』を観た。今観る方がおもしろい。高校入試の翌日に観に行って以来だから、ざっと20年ぶり。

話は単純な、成り上がり上京ストーリー。

上昇志向の強い若者が、ニューヨークにやってきて、バーテンダーのバイトを始め、先輩バーテンダーのコグランと出会い、彼の指導の下、人気バーテンダーとして成功。しかし、経営者として大成功を夢見るトムは、コグランと袂を分かち、自分の道を進む。やがて別々の立場になった二人は再び出会うが……。

といったストーリーなのだけど、吉川晃司の『すかんぴんウォーク』のプロットに似ていることに気づく。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17408/story.html

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2007年6 月26日 (火)

『ダイ・ハード4.0』と情報社会(上) このエントリーをはてなブックマークに追加

Die_hard_arcade ドンパチの派手さしか求められていないハリウッド映画の中で、綿密で精緻にシナリオが書かれていた『ダイ・ハード』の登場はかなり衝撃だった。僕が押井パトレイバーや攻殻SACが好きなのは、SFやロボットだからではなく、ハイテク犯罪をモチーフにしたドラマだからなんだけど、僕にとってのその原点は『ダイ・ハード』だ。

ただ、先日観た『ダイ・ハード4.0』は、上に挙げた作品のレベルに比べるとあれだった。ただのドンパチ映画だった。

とはいえ、“コンピュータに通じたテロリストが引き起こすハイテク犯罪”というシリーズのテーマは引き継ぎいでいるし、現在のテクノロジーや監視社会関連のトピックが盛り込まれているので、そこが良くも悪くもそこが見所にはなっている。

なので、あらすじを追いながら技術・セキュリティ関連の事象などをちょこっと検証してみたい。一応理解の助けのために小説版も参考にしているが、多少映画との違いがあるので、なるべく映画版だけでわかり得ることに絞って書く。

尚、絶対ネタバレするんで、まだ観てない人は読まないように。

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2007年3 月16日 (金)

映画『フラガール』感想 このエントリーをはてなブックマークに追加

Fra

映画『フラガール』のおもしろさについては日記に書いておこうと思ってたんだけど、ちょうどDVDが発売されたのでいいタイミングだ。

舞台は1965年。蒼井優は炭鉱の町で暮らす少女。母(冨司純子)も兄も炭鉱で働いている。しかし、炭鉱会社は炭鉱を縮小し、新たな産業としてリゾートセンター(常磐ハワイアンセンター)の設営を発表する。

1960年代は第一次産業、第二次産業から、第三次産業へと移る産業転換の時代だった。あちこちで同じような事態が起こっていたはず。

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2007年2 月19日 (月)

吉川晃司のコンプレックス このエントリーをはてなブックマークに追加

日経エンタテインメント別冊の80年代ロック特集を立ち読みしてきた。

『J-ROCK80’s』
http://bpstore.nikkeibp.co.jp/item/main/094111690600.html

中学時代とドンピシャはまってる内容なんだけど、当時の僕はアイドルポップスしか聴いてなかったので、ボーイもブルーハーツもユニコーンも嫌いだった。この頃熱心に聞いてたのは南野陽子とラ・ムーと少年隊と少女隊かな。だから、上のムックで取り上げられている中で当時聞いていたのは吉川晃司くらいだ。

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2006年10 月 4日 (水)

映画『オトシモノ』感想 このエントリーをはてなブックマークに追加

makinohara.jpg多分結構ネタバレするのでご用心。 冒頭、定期券を拾った少年と少女が立て続けに行方不明になる。その定期券の始点と終点の駅名は「深川←→水無」。どちらも水に関する名前が付けられている。水は生と死に関係が深い。水自体が冥界の入口を現わすし、井戸も死のメタファーとされがちだし、死に水を取るという言葉すらある。生の方は、羊水であり産湯でもある。桃太郎も川から流れてくる。ここでは主に羊水だろう。

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2006年9 月23日 (土)

西武文化の記録映画『私をスキーに連れてって』 このエントリーをはてなブックマークに追加

私をスキーに連れてって仕事の資料として『私をスキーに連れてって』を見た。 ご存知、ホイチョイとフジテレビが作った馬鹿トレンディー映画。だけど以外に面白くて驚いた。 舞台となった志賀高原焼額山スキー場、万座温泉スキー場は、どちらにもプリンスホテルがあり、開発がコクド、事業者は西武建設と、完全な西武グループ。つまりこの映画には西武グループがスポンサードしている。物語のクライマックスでは新製品のスキーウェアを志賀高原から万座に運ぶために、閉鎖された山越えルートをスキーで走破する。ちなみに原田知世がオープニングでスキー場に向かうスキーバスは西武観光。 この映画が80年代の中核を担う西武セゾン(セゾンは兄の方だからこの時期はほぼ分断状態といろいろ指摘をもらいましたが)文化の一環だったんだとはじめて気が付いた。

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著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

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