2010年7 月27日 (火)

ワインレッドの心と日本のワイン消費史 このエントリーをはてなブックマークに追加

サントリーの創業者・鳥井信治郎は、当時評判が悪かったワインを日本人向けに甘味料を配合し、1907年、“赤玉ポートワイン”と命名して発売した。これが一般的な日本人のワイン消費の始まりである。

赤玉ポートワインで舌を慣らされた日本人が、味付けワインを卒業するのは、`70年のワイン輸入自由化以降のことである。とはいえ、実際に甘味果実酒の消費量をワインを抜くのは、自由化からさらに5年を経る1975年まで待たなくてはならないのだ。

その後、`80年代に入ると関税の引き下げや円高の影響もあり、輸入ワインは手軽に手に入る飲み物として定着していく。さすがにこの頃になると、甘味料で味付けされたワインを飲む日本人はほとんどいなくなっていった。

ワインが生活に馴染んでいった80年代のヒット曲に、安全地帯の『ワインレッドの心』がある。


`84年の年間チャート2位を記録するという大ヒット曲の歌詞を書いたのは井上陽水だ。安全地帯はもともと陽水のバックバンドを務めていた。言うなれば、ボブ・ディランとザ・バンドの関係である。

♪哀しそうな言葉に 酔って泣いているより ワインをあけたら
歌詞:井上陽水

過去の恋愛を忘れて、ワインを飲もうよ。ほろ苦い大人の恋の場面を描いた歌である。憂いのある玉置浩二の歌い方も、大人の恋の世界を醸し出していた。

とはいっても、実はこの曲、赤ワインを甘いソーダで割ったサントリーの商品“赤玉パンチ”のCMソングだった。赤玉ポートワインは、『赤玉スウィートワイン』として、現行の商品として売られており、そのさらにソーダ割りが“赤玉パンチ”である。

ワインが登場する大人のほろ苦い恋の歌だと思ったら、そのヒロインが飲むのは甘いソーダの入った赤ワインだったのだ。シャンパンで乾杯しようと思ったらシャンメリーだったみたいながっかり感は否めない。『ワインレッドの心』はまだワインに味付けがされていた時代の甘ったるい残余のような歌なのである。

ボジョレー・ヌーボーが大流行するのは、この曲がヒットした直後のバブル時代の真最中のことであった。日本人のワインの消費量はその後も右肩上がりに成長。そして、青田典子との熱愛が報道される玉置浩二のバブル臭さもいまだ絶好調である。

2010年5 月31日 (月)

長髪時代の終わりとパンチパーマの起源 このエントリーをはてなブックマークに追加

かつて、理容業界では若者の理髪店離れが問題になった時代があった。

それは、グループサウンズや吉田拓郎らフォーク勢が若者のアイドルとして台頭し、ヒッピー族、フーテン族が跋扈した70年前後のこと。当時の人気歌手の長髪をみんなが真似たのだ。

当時の大スターである吉田拓郎に♪僕の髪が肩までのびて♪(『結婚しようよ』)と歌われてしまっては、世の理髪店にとっては大打撃以外のなにものでもない。ほんと営業妨害。

そんな危機的状況には、業界として立ち向かう必要がある。そこで立ちあがったのが、全国理容環境衛生同業組合連合会(全理連)である。全理連は、緊急プロジェクトチームを結成する。そして、長髪ブームを終わらせようと、ロン毛に変わるファッション性の高いショートヘアスタイルの開発に乗り出したのだ。

冗談のような話だが、事実である(参考文献『ヤクザ・風俗・都市―日本近代の暗流 』朝倉喬司 )。

全理連が開発したパンチパーマは、彼らの目論見どおり若者の間で流行する。その普及にはひとりの青年が貢献した。その青年とは、『銀座NOW』出身で、`77年に『失恋レストラン』でデビューした歌手の清水健太郎だった。


Shimiken シャイで硬派なイメージで売り出されたシミケンは若者たちの新しいアイドルとなった。彼の真似をした若者は、こぞって彼の髪型を真似た短めのウェービーなヘアスタイルにしたのだ。

当時彼の髪型は「健太郎カット」と呼ばれていた。全理連は、彼をポスターのモデルとして起用し、床屋の店頭にかざられていた。そう記憶している。

この当時、僕自身はまだ小学校にも満たない子どもだったが、その後、10年ばかりは常に床屋にとっての理想ヘアスタイルがシミケンのまま更新されなかったから、その雰囲気を覚えているといった程度であるのだが。

ちなみに「健太郎カット」はいまでも「カットチャンピオンの店」と看板が掛かっているようなオールドスクールな床屋ではいまだに推奨されているような気がする。

清水健太郎=パンチパーマというイメージは強くある。だが、実は結構間違っているのではないだろうか。彼の髪型が徐々にウェーブを増していくのは確かだ。ただし、パンチパーマというわけではないように思える。ただ、本人の男前度や顔から受ける印象の問題もあり、なぜかちょっとしたウェービーヘアーが、パンチパーマという印象に変換されてしまう。

ちなみに、当時のパンチパーマとは、「ニグロパーマ」などとも呼ばれ、親しまれていた。アイパーとパンチの呼び名の違いは、道具の違いなど技術的な用件に規定されるモノのようだが、ここでは議論の対象にしない。

正確なことはわからないが、パンチパーマという髪型が暴力団組員の定番として定着したのは、そんなに古いことではないのではないか。定着したのはシミケン登場以降のような気がしている。少なくとも、`73年にシリーズがスタートした実録風やくざ映画『仁義なき戦い』のシリーズにはパンチパーマのキャラクターは1人も出てこない。

菅原文太は角刈り、小林旭はきっちり七三である。これは時代考証的なもの込みの話なのかも知れないが。

さて、『失恋レストラン』では、恋に破れ「ポッカリあいた胸の奥」を満たす「飯」を出すレストランが舞台だったやくざ=パンチパーマというイメージが定着するのは、シミケンのその後の人生と密接に結びついているのかもしれない。彼の「ポッカリあいた胸の奥」を埋めたのは飯ではない別の何かだったのだが、それは大人の事情が絡む内緒の話であった。

余談だがこのブログを書いている僕の名は速水健朗である。その字面のせいか、いまだに「シミズケンタロウさん」と病院の受付などで呼ばれることは少なくない。

2010年5 月22日 (土)

自動車とポップス~ドライバーシートと助手席の攻防を巡るアンダーステアな40年史 このエントリーをはてなブックマークに追加

アクセルふめば 恋のスピードあげてくる
握るハンドル 彼の横顔 愛のサインが浮かぶ
Go! Go! 走れ レンタカー
Go! Go! 走れ 若い二人の夢のせて

『Go! Go! レンタカー』田辺靖雄・中尾ミエ(作詞:安井かずみ)

「若い二人の夢」を乗せて走るのはレンタカー(笑)。とはいえ、この曲の発売は1966年だから、日産サニー、トヨタ・カローラという、低価格のファミリーカーが競い合って登場した、「マイカー元年」に当たる年。数年後、この二人が結婚したらきっとカローラを買い、郊外のニュータウンにマイホームを手に入れ、子どもを産む。そんなライフコースを辿るであろう、ベビーブーマー世代の青春時代が込められている。

この10年後の1976年に、発表されたのがユーミンの『中央フリーウェイ』。ハイファイセットも唄いました。


間奏のアレンジがとてもキラキラした名曲。

この歌の肝は、中央自動車道を「中央フリーウェイ」と言い換えたところ。実在の風景を、言葉と描写と音楽のアレンジによってまるで日本ではないかのように見せてしまっている。とはいえ、たしかに夜の中央自動車道は周囲も暗く、本当に夜空に続く滑走路のような風景が味わえる。結構好き。

『Go! Go! レンタカー』とは違い、この歌の二人には倦怠感も垣間見られる。あとレンタカーではなく、ちゃんと所有している車なんだろう。この歌はクルママニアの松任谷正隆と結婚前に、自宅までクルマで送ってもらっていた実体験がモデルになっているのだから。MGかアルファロメオあたりの小型オープンカーのはずだ。

緑の中を走り抜けてく真紅(まっか)なポルシェ
ひとり旅なの 私気ままにハンドル切るの

『プレイバック part2』山口百恵(歌詞:阿木耀子)

この歌がよく取り上げられたのは、男性に従属しない女、主体性を持ったヒロイン像。つまり、助手席ではなく、自分でハンドルを握り、しかもポルシェに乗る主人公という部分が言及された。

途中で巻き戻ししたりするおもしろい歌詞。

阿久悠なんかがもっとも意識的にやったのだけど、70年代の歌謡曲は男女の従属関係、権力関係が意識的に歌詞に登場した時代でもあった。だけど、80年代になるとそんな空気 も薄くなる。

次は、おニャンコクラブの自動車歌謡『国道渋滞8km』。これ超好き。名曲。アルバム収録曲で、スタンダードとは言えないけど。エンジン音のSEから始まる自動車歌謡には数あれど、これは異色。なんと渋滞を歌っている。

シチュエーションは、はじめてのドライブデート。1日ドライブしたあと、都心まで送ってもらう。つまり、ヒロインは、都心住まい。だけど、帰りに首都高で8キロの渋滞につかまる。自動車の普及数の予測という、都市計画のもっとも根本部分に不備が露呈した時代のアンセム。というわけではなく、ヒロインは渋滞のおかげで一緒にいられる時間が延びてよかったという健気な女の子。ちなみにクルマはカブリオレタイプだそうだ。

さて、90年代にドライバーシートを巡る男女の位置の入れ替えを歌ったのは小沢健二である。

彼を迎えにでかけて
もう1時間 待ちぼうけ
カローラIIはその時
私の図書館

『カローラⅡにのって』小沢健二(歌詞:佐藤雅彦・内野真澄・松平敦子)

これは1994年のカローラⅡのCM。車種のターゲット的に女性向けなので、まあ当然こういう歌詞になるのだ。

とはいえ、90年代初頭に宮沢りえがダイハツ・オプティのCMに出て以降、クルマのCMに女性が出てきて女性にアピールするCMが急速に増えていったのも事実だろう。自動車の国内新車販売台数のピークが1990年。国内市場の飽和に危機を感じた自動車業界は、新しい購買層の開拓し始めたのだ。

日本の自動車産業に大きな変化が起きたのは、この90年前後のこと。エスティマの登場にはじまるミニバン主流の時代に突入。

トヨタは、スポーツカー離れする若者を狙って新しいシティユースRVの市場を開拓する。団塊ジュニア世代の代表選手で、まだブレイクしはじめの22歳の木村拓哉を起用したRAV4がそれ。この1994年は、キムタクが『anan』の「好きな男ランキング」ではじめて1位を獲得した年でもある。
その後も木村はトヨタのCMに出演し続けることになる。ただし、車種は変わる。その後は、カローラのスポーツタイプであるカローラ・フィールダーに登場。国民的アイドルグループSMAPのフロントとして、国民車のCMに出ているという構図。

90年代末以降のポップミュージックにおける自動車の扱われ方の変化も見ておこう。

例えば、1998年に『夏色』で登場したゆずは、「♪この長い長い下り坂を 君を自転車の後ろに乗せて ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく」と、自転車の歌でブレイクしている。70年代のフォークもあまり、自動車が出てこなかったし、これはジャンル特有の問題なのかもしれないが。

くるりには、『ハイウェイ』という曲があるが、この歌は「♪車の免許とってもいいかな」と、運転免許証すら未取得の主人公の歌である。まあ、くるりの岸田は電車オタクなのでしかたがないが。

とりあえず、思いつきではありますが、自動車とポップミュージックを巡る話を書き留めてみました。

2010年5 月 3日 (月)

照明器具の違いとして描かれた昭和の生活レベル このエントリーをはてなブックマークに追加

東芝ライテックは、CO2排出量の削減のため、白熱電球の製造を17日をもって中止すると発表した。今後は、消費電力の少ない電球型蛍光灯やLEDといっ た省エネ型の照明に移行する。

 同社は2008年4月に、白熱電球の生産を2010年に廃止する旨を発表。他メーカーでは2012年に製造を中止するところが多いな か、予定通り2010年に生産を中止する。 http://kaden.watch.impress.co.jp/docs/news/20100317_355270.html

 2010年の3月をもって、東芝は約120年間に渡り販売してきた白熱電球の生産を中止した。そんな白熱電球は、流行歌の中に“裸電球”としていく度も登場してきた。


『大阪で生まれた女』(作詞・作曲・BORO)は、`79年の萩原健一のヒット曲。主人公は女性。大阪を愛する彼女は、大阪を離れ東京に出るんだという彼氏との別れを意識する。だが結局、彼女は男に付いていくことになる。

たどりついたら 一人の部屋 裸電球を
つけたけど 又 消して
あなたの顔を 思い出しながら
終わりかなと 思ったら 泣けてきた
大阪で生まれた女やけど
大阪の街をでよう
大阪で生まれた女やけど
あなたについてゆこうと 決めた

作詞:BORO

彼女の方針変更のきっかけは、裸電球だった。部屋でひとりきりになる寂しさを知った彼女は彼氏を追いかけて大阪を離れることを決意するのだ。


`74年にかぐや姫が歌った『赤ちょうちん』(作詞・喜多条忠)でも、「♪あのころふたりの アパートは裸電球 まぶしくて 貨物列車が 通ると揺れた ふたりに似合いの 部屋でした 覚えてますか 寒い夜 赤ちょうちんに 誘われて おでんを沢山 買いました」と、同棲カップルが暮らす部屋に“裸電球”が描かれる。


`87年に長渕剛が歌った『泣いてチンピラ』は、夢を持って上京した男が「紙コップの味噌汁」をかじる貧乏暮らしを営む歌だ。

「♪紙コップの味噌汁をかじれば 天井が笑う 裸電球 ぶら下がった部屋で
忍び泣いてる女は なお哀しくて ああ爪を噛んで 強くお前を抱きしめた」

歌謡曲における「裸電球」とは、貧乏、同棲と常にワンセットなのだ。

これら歌謡曲の世界の「裸電球「と暗に対比されているものは蛍光灯だろう。家族が一緒に生活するリビングルームを照らす明るい蛍光灯と、淋しい四畳半一間を照らす裸電球。幸せの在り方が、照明器具の違いとして暗にというか煌煌と対比されているのだ。

こうした対比の図は、現代のファミリーにはあまり適用できない。蛍光灯が灯る居間に集まる家族団らんの図とは、現代人の生活にとっての標準的な幸せとは言い難い。それどころか、そもそもいまどきのリビングは、むしろ間接照明に彩られているので、裸電球が用いられているはずだ。

白熱電球の生産を止めた東芝は、LED電球の生産にシフトした。LED電球が歌謡曲に登場するかどうか、それは微妙。

2009年12 月15日 (火)

コーヒーと恋愛、及びその受容とたまにイノベーション このエントリーをはてなブックマークに追加

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ
夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと
あの人が言った 恋の季節よ

『恋の季節』作詞:岩谷時子

決定版 今陽子とピンキーとキラーズ

ピンキーとキラーズのデビュー曲『恋の季節』には、「夜明けのコーヒー」という歌詞が登場する。男は口説き文句として「夜明けのコーヒー」を一緒に飲もうと女を誘う。喫茶店のモーニングに誘っているわけではない。朝まで部屋で一緒に過ごそうという大人の口説き文句だ。
ピンキラは`68年にボサノバを歌うグループとしてこの曲でデビュー。もしかしたら、コーヒーが登場するのはボサノバ=ブラジルのつながりもあるのかもしれない。

この歌詞からはカップルが飲んだコーヒーがドリップ式なのかインスタントだったのかの推測は出来ないのだが、きっと後者である。なぜなら、この曲は発売される前年に、インスタントコーヒー界における革命『ネスカフェ・ゴールドブレンド』が日本で発売されていたからだ。

フリーズドライ製法を使った本格的なインスタントコーヒーの皮切りがこの『ネスカフェ・ゴールドブレンド』だった。「違いがわかる男の」というキャッチコピーと“ダバダ~♪”のCMソングは「目覚め―ネスカフェ・ゴールドブレンドのテーマ」長きに渡って使われているので、知らない人はいないだろう。

常にコピーとともにコーヒーにうるさいイメージの文化人を毎年起用するこのCMの初代は映画監督の松山善三で、遠藤周作や北杜夫も出演。ただし、「違いがわかる男の」というコピーは、現在「違いを楽しむ人の」に変わっている。ただし、このシリーズで最初に起用された女性は版画家の山本容子で、シリーズ開始から29年目の1999年のこと。

さて、『恋の季節』からちょうど30年後にあたる、1998年。モーニング娘。は『モーニングコーヒー』でデビューする。そのデビュー曲にも、コーヒーが題材として取り上げられている。

ねえ はずかしいわ (ドキドキ)
ねえ うれしいのよ (してる)
あなたの言葉
「モーニングコーヒー飲もうよ 二人で」
(Yes) 門限どおりに
(Yes) うちに送ってくれる
(Yes) 私より弱虫ね
(Stop) 時間が来るまで
(Stop) ぐるぐると遠回り
(Stop) くちづけも出来ない人

叱られたって かまわない
あなたについてゆくと決めた
なのに 急じゃ (こわい)

『モーニングコーヒー』作詞:つんく
モーニングコーヒー

しかも、ここで描かれるのも、“モーニングコーヒー飲もうよ 二人で”という、男からの口説き文句である。この男は、普段彼女“門限どおり”に送って届けるまじめな男のようだ。そんな彼に突然大胆な告白をされ、ドキドキする女の子の心模様が歌われる。

門限がある実家暮らしの女の子で、「叱られたって かまわない」というくらいなのだから、ここでのモーニングコーヒーは、外である。ホテルからの初めての朝帰りというシチュエーションなのだろうか。

そうだとしたら、この2人が飲んだモーニングコーヒーは、まだ当時、シアトルから上陸して間もないスターバックスコーヒーだった可能性がある。スタバの日本進出は`96年。銀座が1号店だった。そして、この曲が発売された98年から99年にかけて国内の店舗数を18から52店舗へと急増させている。そこからスターバックスは、あっという間に普及していった。

コーヒーの進化・イノベーションは、歌謡曲の恋愛の場面において、さりげなく登場し、ある種の役割を果たしているのだ。

さらに、ピンキーとキラーズとモーニング娘。の両デビュー曲のちょうど中間にあたる1983年。尾崎豊のデビュー曲『15の夜』に登場するのは“缶コーヒー”だ。

冷たい風 冷えた躰 人恋しくて
夢見てるあの娘の家の横を サヨナラつぶやき走り抜ける
闇の中 ぽつんと光る 自動販売機
100円玉で買えるぬくもり 熱い缶コーヒー握りしめ
恋の結末も解らないけど
あの娘と俺は将来さえ ずっと夢に見てる

『15の夜』作詞:尾崎豊

卒業/15の夜

15歳の少年が夜中に家出を敢行する。そして、(おそらくは)片思いの少女の家の前を通り「サヨナラ」と独りつぶやく。周囲は真っ暗だが、少年はぽつんと光る自販機を見つける。
「100円玉で買えるぬくもり 熱い缶コーヒー握りしめ♪」と続く。

少年の不安な心は缶コーヒーによって暖められる。はかないその場限りのぬくもりであることが、「100円玉で買えるぬくもり」という歌詞で表現される。15才にとっての缶コーヒーとは、ちょっぴり大人への背伸びという感情も込められているのだろう。

これを`65年生まれの尾崎の15才の頃の体験と仮定するなら、舞台設定は1980年ということになる。当時はまだコンビニも少なかった時代である。セブンイレブンの店舗数でいうと、現在の32分の1程度。外が寒いからといって、コンビニに寄っておでんでも買おうかという時代ではないのだ。

自動販売機に缶コーヒーが登場したのは1969年のこと。3年後の1972年にはホット用の自販機も登場している。しかし、缶コーヒー史における最大のイノベーションは、1976年に登場した「ホットアンドコールド自動販売機」だろう。この機種の登場以後、冷たい缶ジュースと温かい缶コーヒーを一緒に販売できるようになり、缶コーヒーは急速に普及することになった。

寒い夜に一人で家出する尾崎の孤独を暖めた缶コーヒーは、こんな技術革新を背景にしたものだったのだ。

ちなみに、缶飲料の価格が110円になったのは、尾崎が死んだ`92年のこと。100円玉1枚では温もりすらも買えない時代は、ここから始まったのである。

続く(かな?)

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2009年4 月20日 (月)

『世情』vs『いちご白書をもう一度』 このエントリーをはてなブックマークに追加

沖田浩之と川上麻衣子と加藤優が出ていた『3年B組金八先生』第二期、シリーズ終盤の『卒業式前の暴力 前後編』は、あの金八が(当然)嫌いだったナンシー関をして「泣いた」と言わせたシーン。

「荒屋二中一のワル」こと加藤優は転向した桜中の金八の下で更正し、就職も決まっていた。だが、かつての不良仲間たちを見捨てて卒業することができず、再び荒屋二中に乗り込み、不良たちとともに放送室をバリケード封鎖する。その後が例のシーン。

警察隊が学校に強行突入し、加藤たちを連行。横暴な権力に屈してしまう加藤たちの姿がスローモーションで描かれ、バックには、正しいものが敗れ去る悲哀を歌う中島みゆきの『世情』が流れる。

このシーンは、学生運動にのめり込む若者たちの青春を描いた映画『いちご白書』(70年)の、学生運動の学生たちが占拠する学園に警官隊が突入するシーンを下敷きにしている。金八の演出家は、70年代末の校内暴力を60年代末の学生運動に見立てたのだ。

『いちご白書』のラストシーン、主人公が警官ともみ合う場面でスローモーションとなり、そこに重なる挿入歌のバフィ・セントマリーが歌う『サークルゲーム』。この曲の作曲者はジョニ・ミッチェル。金八の演出家が挿入歌に中島みゆきの学生運動を彷彿させる『世情』を使った。もしくは、和製ジョニ・ミッチェルとしての中島みゆきという連想もあったのかもしれない。

ただし、音楽で狙った演出の意図は、まったく違うもの。『世情』は警官が突入し、加藤たちを捕まえるシーンのスローモーションをドラマチックにするために使われているが、オリジナルの『いちご白書』の方は、警官が主人公を捕まえるシーンのスローモーションになったシーンで、それにそぐわない明るい曲調のものとして『サークルゲーム』を挿入している。

その明るい曲をバックに、まだ無邪気に楽しんでいた時代の回想のスローモーションとなって、エンドクレジットに突入。青春との訣別といった主題を、挿入歌とスローモーションで演出した。

さて、この『いちご白書』という映画を題材に曲を作っているのは松任谷由実(当時荒井由実)。

 

こちらは、かつて『いちご白書』を一緒に観た昔の彼女のことを回想する内容の歌詞。この歌の「自分」は、学生運動を卒業し、髪を切って就職を決めた自分に「もう若くないさ」と言い訳をする。 やはり、学生運動とそこからの卒業を、「モラトリアムの終わり」、「あきらめ=成熟」と解釈して歌にしている。

ユーミンも中島みゆきも、ジョニ・ミッチェルからの影響は大きいんじゃないかと思うんだけど、この辺りがそのスタンスの違いみたいなものをあらわしていたり、しなかったりするんじゃないかと。

2009年3 月17日 (火)

遠距離恋愛のソリューション このエントリーをはてなブックマークに追加

太田裕美の『木綿のハンカチーフ』は、「東へと向かう列車」に乗って都会へと旅立つ恋人を送り出す女性の歌。この歌は2番、3番と進むにつれて時間が経過し、都会の生活に慣れた恋人は、結局戻ってこないという結末を迎える。ちなみに作詞者の松本隆は東京都出身。このような上京の経験はない。

いるかの『なごり雪』も駅で恋人との別れを惜しむというもの。「東京で見る雪はこれが最後ね」という歌詞から、舞台である駅は東京にあることがわかる。上京ではなく、地元へ帰ってしまう恋人との別れを描いた歌なのだろう。作詞者の伊勢正三は大分県出身。大学は千葉工業大学なので、上京経験は有り。

この2曲は1976年にヒットした曲だが、それから10年を隔てた1986年のヒット曲『青いスタシィオン』も上京鉄道歌謡。これを歌っているのはおニャン子クラブの河合その子。前の2曲に比べれば知名度的には劣るかもしれないが、この曲は個人的には80年代のアイドル歌謡の最高峰だと思う。

「スタスィオン」とはフランス語の“ステーション=駅”のこと。やはり、恋人が旅立つのを駅で見送る内容の歌だ。ちなみに作詞者の秋元康は東京出身。上京の経験はない。

どれも卒業、就職のシーズンに訪れてしまう恋人との別れがモチーフになっている。

こういった3月の別れは普遍的なモチーフものなのかと思いきや、この手の恋人との別れを描いた上京ソングが、その後流行ったというような印象はない。なぜか?

70年代新幹線の本数の増強や路線拡大、そして90年代の新幹線のスピードアップが地方と東京の関係、そして恋人たちの関係を変えたのだ。

1987年、JR東海は東京−新大阪間の最終列車に「シンデレラエクスプレス」と名付け、東京・大阪と離れて暮らすカップルが、週末を東京で一緒に過ごしたあとに最終列車で帰る恋人を駅まで見送りに行くというドラマ仕立てのCMを放映した。


BGMには松任谷由実の『シンデレラエクスプレス』が流れる。このCMキャンペーンは、ユーミンの曲名から取っている。このCMに出演している横山めぐみは、僕らの世代にとっては少し特別な女優であった。

ドラマ『北の国から』の主人公・純の初恋の相手で、家族で夜逃げして離ればなれになった“れいちゃん”を演じたのが横山だった。電車に乗って横山めぐみに会いに行くというシチュエーションは、絶対このれいちゃんとのエピソードを踏まえたものだろう。

それはともかく、このCMが訴えるのは、週末は一緒に過ごすという遠距離恋愛の形だ。つまり、新幹線のスピードアップによって恋人たちの距離は縮まり、週末に簡単に行き来ができるようになったのだ。

そしてさらなる遠距離恋愛カップル向けのソリューションとして登場するのが携帯電話だ。

「♪ 離れてる気がしないね 君と僕との距離」というのはオレンジレンジの『以心電信』という曲の冒頭部分。さらに「いつも僕等はつながっているんだ」と、距離が離れていても、テレパシーで心はつながっているという歌なのだが、これはauの携帯電話のCMタイアップソングだった。

こういった具合に、テクノロジーの進化とともに3月に離ればなれになる恋人たちの在り方も、テクノロジーやメディアの進歩に下支えされ、変わっていくのである。

(週刊アスキー『恋のDJナイト』より転載&幾分修正)

2009年1 月18日 (日)

カラオケ史最大の謎 このエントリーをはてなブックマークに追加

カラオケボックスに置かれている歌リストの「ジャンル別」の本には、必ず「軍歌」の欄があり、世の中にはこんなに軍歌が存在するの? ってくらい軍歌が並んでいる。

ま、さもありなん。新宿とかに行くと、軍歌スナックというものがあり、そこには軍歌で盛り上がってカラオケをする客たちが集まっている。これがライトウイングなカラオケカルチャー。
ぼくだって『月月火水木金金』や『同期の桜』くらい歌える。

さて、一方で左翼と歌のつながり。
こっちは、もっと関わりが深い。左翼運動=唄の歴史と言っていい。
労働歌、うたごえ運動、反戦フォークとどれも左翼運動と深く結びついている。
あまり関係ないかもしれないけど日本の最初のヒット曲と呼ばれる『カチューシャの唄』はトルストイの舞台の主題歌だ。

右な人たちのカラオケが軍歌で盛り上がるように、元左翼とかの人たちのカラオケは労働歌で盛り上がるはずだ。

そのだれもが歌える定番曲となると、民青も全共闘のデモ行進でも連合赤軍の山岳キャンプでも合唱された『インターナショナル』なんだけど(ちなみに僕は『インターナショナル』ならそらで歌える)、なぜかカラオケには『インターナショナル』が収録されてない。

なぜだろう? 全共闘世代とかぜったいカラオケで歌いたいはずなんだけど。

同じ疑問は、2ちゃんねるのスレッドでも取り上げられていて、リクエスト工作活動も提唱されていた。

インターナショナルにカラオケを!

9年前のことだが、この工作活動は実っていない。まったくスレが伸びていないし、誰も参加しなかったのだろう。

この件について、ググレカス以外の情報をお寄せください。

2008年11 月 3日 (月)

フランク永井と広告都市有楽町の50年 このエントリーをはてなブックマークに追加

先日他界したフランク永井については、拙著『タイアップの歌謡史』で、黎明期の広告タイアップソングの成功モデルとして取り上げたことがある。

→続きを読む

2008年8 月30日 (土)

哀しい大人になってしまった…夏 このエントリーをはてなブックマークに追加

 稲垣潤一『思い出のビーチクラブ』、杏里『最後のサーフホリデー』は、`87~`88年のカナダドライ・ジンジャーエールの87年,88年のCMソング。バブル真っ盛りの夏。

清涼飲料水のCMで言うと、コカ・コーラがこの分野の歴史を作ってきたのだけど、コカ・コーラはわりと日本の夏とコカ・コーラという和風路線。逆に、わかりやすく、夏、リゾート、恋という路線を打ち出していたカナダドライは、ちょっと大人な感じのアーティストを使ったCM展開をしていた。

ちなみに、1987年は“総合保養地域整備法”、つまり通称リゾート法が制定された年でもある。
当時中学生だった僕は大学生になったらリゾートに行って、「避暑地の恋」をするんだと、胸をときめかせていたものだった。まさか、自分が大学に入った頃にバブルが弾けるとは露知らず。いや、それよりもっと致命的だったのは、三流大学にしか入れなかったことだったのだが。

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著書

about::フリーランス編集者・ライターの速水健朗のブログ。ディスコや歌謡曲などについて。

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